幼児への普及活動で大きく出遅れた野球界
サッカーでは、JFAが2002年には「JFAキッズプロジェクト」を立ち上げた。翌2003年から47都道府県サッカー協会と共に各地の保育園や幼稚園でボール遊びなどを教える巡回指導をはじめ、キッズフェスティバルやファミリーフットサルなど様々な取り組みをスタートした。そして幼児を指導するキッズリーダーというライセンスを設けた。キッズリーダーは専門知識や技術を身につけ、幼児にサッカーの楽しさを教えている。現在全国に1000人弱のキッズリーダーがいる。またキッズリーダーを養成するキッズリーダーインストラクターという指導者もいる。こういう形で、幼児からのサッカーの普及を行っている。しかし野球界は、これまでほとんどこうした取り組みは行ってこなかった。
リトルリーグなどの少年野球も、スポーツ少年団の野球チームも、入団の資格は9歳前後からであり、それより小さな子供に野球を教えたり、体験させたりする団体、チームはなかった。その必要がなかったのだ。
昭和の時代、男の子の遊びといえば「野球」
昭和の時代、日本の一般家庭の日常の娯楽といえば「プロ野球」だった。夜7時のゴールデンタイムには、どこかのテレビ局がプロ野球中継をしていた。子供たちは勤めから帰った父親と、プロ野球中継を見ながら夕ご飯を食べた。NHKは、試合終了まで放送したが、民放は7時から8時54分まで。試合途中でも打ち切られた。それでも不満を言う人は少なかった。試合の結果は11時からのスポーツニュースで見た。翌朝の新聞のスポーツ欄もプロ野球の記事ばかり。少年漫画誌の表紙も長嶋茂雄や王貞治などの野球選手。まさにプロ野球はナショナル・パスタイム(国民的娯楽)だった。
だから、昭和の時代の子供は、幼稚園から小学校に上がる時期には野球のルールは、おぼろげながら知っていた。休みの日に父親とキャッチボールをした経験がある子供も多く、野球は特別に教えてもらうことがなくても、自然に理解していた。
そして小学校に入ると、子どもたちは放課後に空き地で「野球ごっこ」に興じた。昭和30年代前半までは、バットは木切れ、ボールは布を巻いたお手製だったが、昭和40年代に入ると親が子供用のグローブやバットを買い与えた。そういう形で、野球は子供たちの体に自然に染みついていた。
愛媛県のあるお寺には、こんなお地蔵様がある(愛媛県今治市高龍寺)。
左の地蔵は眼鏡をかけて本を読んでいる。右の地蔵はバットとグローブを持っている。
「どういう意味があるのですか」とご住職に聞くと
「よく学び、よく遊べ、ということです」とのことだった。この地蔵は昭和40年代にできたという。このお地蔵さまが物語るように、昭和の男の子たちにとって、遊びといえば「野球」だったのだ。
そんな時代に、幼稚園児や小学校低学年の子供に、わざわざ野球を教えようという大人はいなかった。教えなくても子供たちは勝手に野球を覚えて、学校が終われば野球ごっこをしたからだ。