ニュース 2018.10.30. 17:03

投手育成の名伯楽、高知商谷脇一夫元監督の「投手を大切に育てる野球」

名将松田昇監督は「データ野球」

私が小さい頃は、少年野球がなくて小学校ではソフトボールをしました。そして伊野中学(現いの町立伊野中学校)に進んでから野球を始めました。伊野中学は名門で、尾崎靖夫(大洋)、山崎武昭(東映)などのプロ野球選手が出ています。
そして高知商に進みました。ポジションは捕手です。監督は名将と言われた松田昇先生です。先生は徹底的なデータ野球でした。1961(昭和36)年、2年生の時に高橋善正(東映、巨人)とバッテリーを組んで夏の甲子園に出た時は、先乗りスコアラーを派遣して甲子園練習を見させて、誰がどんな球を投げるかを徹底的に調べていました。
当時のミーティングのノートもあります。試合前にはこのバッターはこの球に強いとかミーティングで話していました。
松田先生は、ここぞというときには高橋にシュートを投げさせていました。シュートの連投です。痛めたようには思えませんでしたが、あとで高橋に聞くと肘が曲がっていたようですね。

社会人野球で優秀選手


私はそこから社会人野球の鐘淵化学に入社し、11年間プレーをしました。最後2年は兼任コーチでした。入社5年目から6年連続で都市対抗に出場し、24歳の時に都市対抗で優秀選手賞をもらいました。
私は捕手としては肩が弱かったので必死に練習しました。ナイターのときも終わってから一人で練習しましたし、朝も1時間練習してから出社しました。
社会人でバッテリーを組んでいたのは後に阪神へ行った谷村智啓や近鉄に行った井本隆、オリックスへ行った宮田典計などです。井本はまだ私が現役の時に自宅へ行ってスカウトしました。

現役を引退して1年間勤め人をしていた時に母校の高知商から監督をやらないかと声をかけてもらいました。30歳のときでした。
当時の高知商は強かったので、私はすぐにでも甲子園に出場できると思っていましたが、なかなか勝てませんでした。監督が未熟だったからです。新米監督がみんな陥る錯覚ですね。
3年間も出場できなかったので辞表を出さないかん、とまで思いました。そこから何とか頑張って、18年間の在任中に夏9回、春4回、甲子園に出ました。
当時の高知ではまだ明徳義塾は台頭していなくて、高知商、高知、土佐が3強で、これに続いて伊野商や中村などの高校がありました。

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