ニュース 2019.03.19. 14:07

【今、野球と子供は。】高校野球のルーツ

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減少に転じたとはいえ、甲子園の地方大会に出場する学校は今も4000校近くに上る。高校野球がなければ、野球は「ナショナルパスタイム」と言われるほど盛んにはならなかっただろう。

 

新聞社のアイデアで生まれた中等学校野球


高校野球は、新聞社のアイデアから生まれた。1915年、大阪朝日新聞の社会部長だった長谷川如是閑が、「全国中等学校優勝野球大会」を企画したのだ。長谷川如是閑は大正デモクラシー時代の代表的なジャーナリストであり、戦後は日本国憲法の制定に参加。文化勲章も受賞している文化人だ。

朝日新聞はその数年前まで、東京で「野球害毒論」を展開し、大学生たちが野球に夢中になることを批判する論調のキャンペーンを張ったが、突然、野球の大会を主催したのだ。

中等学校とは、現在でいう中学1年から高校2年生までの5年制の学校だった。今の3年制の高校よりも就学年限が長く、野球部員は最大で9回甲子園に出ることが可能だった(4年で卒業して上の学校に行くこともできた)。また同じ年齢の師範学校や、実業学校(商業学校、工業学校、農業学校)の野球部も参加することができた。

 

大人気となった中等学校野球


「全国中等学校優勝野球大会」第1回大会は、全国10校の代表が出場し、大阪府の豊中野球場で行われた。新聞社の予想を上回る観客が詰めかけた。大阪府では大阪朝日新聞の部数が増えた。代表校の選手、指導者の交通費、滞在費は主催者の大阪朝日新聞が負担。これは現在まで続いている。

第2回も盛況だったため、大阪朝日新聞社は阪神電鉄に依頼して兵庫県鳴尾浜に2面の球場を建設、第3回から使用したが、観客数はさらに増加。観客がグラウンド内になだれ込んだり、観客席が壊れる事態となったため、大阪朝日新聞社は阪神電鉄にさらに大規模な野球場の建設を要請。

すでに阪神電鉄を使って多くの観客を鳴尾浜に運んでいた阪神は、この要請を受けて鳴尾浜球場に近い鳴尾村に、当時のニューヨーク・ヤンキースの本拠地、ポログラウンズを参考に、大球場を建設。1924年に竣工したこの球場は、この年の干支の甲子(きのえね)にちなんで甲子園と命名された。

竣工時の阪神甲子園球場(当時は阪神甲子園大運動場)は、5万人を収容する大球場で、満員になることは当面ないだろうと言われたが、この球場が会場となった1925年の第10回大会の3日目の準々決勝で、早くも満員札止めとなった。

甲子園の開場によって、中等学校野球は、全国的な注目を集める人気スポーツになった。

第1回大会では地方大会の参加校数は73校だったが、第10回大会には263校と膨らんだ。

 

「もう一つの甲子園」選抜大会の誕生


参加校数が増えるとともに、新興の私学や商業学校などの実業高校が台頭、当初から出場している名門校であっても全国大会で勝ち抜くことが難しくなった。

このことに危機感を抱いた和歌山中学の関係者が、毎日新聞社にも中等学校野球の大会を主催できないかと持ちかけた。

毎日新聞は、朝日新聞が東京で「野球害毒論」を展開した時は、これに反対する論陣を張っていた(当時は東京日日新聞)。また1909年に大阪で日本初のマラソン大会を主催するなど、スポーツ分野では朝日新聞をリードしているという自負があったので、毎日新聞は「第2の野球大会」の主催を決定。

甲子園が開場した1910年に第1回選抜中等学校野球大会を開催した。朝日が地方大会を勝ち抜いた学校が出場する大会なのに対し、毎日は選考委員が学校を選抜した。「選抜」とは、そういう意味だ。強いだけでなく、歴史ある名門校を選抜するという意図があったのだ。

第2回大会からは「選抜」も甲子園で行われるようになった。これによって「甲子園」は「中等学校野球」の聖地となった。

参加校数も増加し、1934年の第20回の夏の大会は戦前最多の675校に達した。
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