■日本で発展した「野球のトーナメント」
注目すべきは、朝日、毎日だけでなく、全国の地方新聞社が同様の野球大会を主催したことだ。大会数が多くなったこともあり、地方新聞は中等学校の下の高等小学校の野球大会も行うようになった。昭和初期、広島県呉市には、二河小学校に藤村富美男、五番町小学校に鶴岡一人という天才的な野球少年が登場して、大きな話題となった。二人は後に野球殿堂入りする大野球人となったが、ともに小学校時代からエースとして全国大会でも活躍している。
朝日、毎日以外の新聞社の主催する中等学校や高等小学校の野球大会も、すべてトーナメントだった。今も少年野球の地域の大会は、ほとんどがトーナメント制だがこれもその時以来の習慣と言えるだろう。
アメリカの野球は「リーグ戦」が基本だった。そもそも「リーグ戦」という試合形式を考案したのもアメリカ野球であり、これをイギリスのサッカー関係者が取り入れてプレミアリーグを創設したのだ。
野球はリーグ戦で戦う競技として誕生したが、これを日本の中等学校野球がトーナメント戦へと変えたのだ。
日本のアマチュア野球は大学野球を除いて「トーナメント」が基本となった。このことが「一戦必勝主義」を生み、一人のエースが「腕も折れよ」と投げる「エースシステム」につながったと言えよう。
■職業野球もエースが引っ張った
1936(昭和11)年には、読売新聞正力松太郎が主唱して職業野球が始まる。これは1934年の米メジャーリーグ選抜の来日に端を発している。米にならってプロ野球リーグ戦を行い、将来的にはアメリカと「世界決戦」を行うという壮大な目標を掲げていた。
このために職業野球はリーグ戦で始まったが、試合数が少ないこともあり、野球のスタイルは一人のエースがチームを引っ張る「エースシステム」になっていた。
草創期の職業野球を代表するのが、東京巨人軍の沢村栄治(1917-1944)だった。沢村は旧制京都商業時代には甲子園にも出場しているが、中退して東京巨人軍に入団。1937(昭和12)年春にはチーム56試合のうち30試合に登板し24勝、防御率0.81で最高殊勲選手に選ばれている。しかし、兵役と登板過多によって1943(昭和18)年には巨人軍を解雇され、翌年に再度兵役につき戦死。