ニュース 2019.07.25. 17:00

ロマンか酷使か? 日本野球の「エースシステム」誕生の歴史(前編)



■板東英二の歴史的な投球


終戦後、連合国占領軍(GHQ) の政策もあって、野球の復興は比較的早かった。終戦の翌年にはプロ野球も中等学校野球(1948年から学制が変わり高校野球)も再開された。
アメリカ流の攻撃型の野球も紹介され、プロ野球では赤バットの川上哲治、青バットの大下弘と打者のスター選手が少年たちのアイドルになった。
しかし、高校野球では、依然として一人の投手が予選から甲子園の決勝までを一人で投げ切る「エースシステム」が主流だった。
1958年には、徳島商の板東英二が四国地区高校野球春季大会で、

・1回戦 徳島商 2-1 高知商(延長16回)
・決勝 高松商 2-0 徳島商(延長25回)

と41回を一人で投げぬき、全国的な話題となる。日本高野連は、選手の登板過多を懸念し、延長戦を18回で打ち切って再試合にすることを決めた。
日本高野連が投手の健康面に配慮を見せたのはこれが最初だった。
板東はこの年の夏の甲子園でも活躍する。

<全国高校野球選手権大会>
・2回戦 徳島商 3-0 秋田商 17奪三振
・3回戦 徳島商 3-1 八女 15奪三振
・準々決勝 徳島商 0-0 魚津 25奪三振(延長18回、引き分け再試合)
・準々決勝再試合 徳島商 3-1 魚津 9奪三振
・準決勝 徳島商 4-1 作新学院 14奪三振
・決勝 柳井 8-0 徳島商 3奪三振

板東は、この春、自分の投球がきっかけで導入された新規則の適用第1号になって、引き分け再試合をすることになった。
板東の力投を各新聞社は絶賛した。(広尾晃)

後編に続きます

< 1 2 3

ポスト シェア 送る

もっと読む

連載・コラム
カラダづくり
練習
お役立ち
チーム紹介
TOPICS