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文武両道校に現れたプロ注目右腕、高校からピッチャーになった理由とは?|大塚遼(市ケ尾)

勝てなくても楽しかった中学軟式野球

——野球を始めたきっかけを教えてください。

父が大学まで野球をやっていて、兄も少年野球チームに入っていたので自然に野球をする環境があり、1年生ときから「宮前モンスターズ」に入りました。

——少年野球は楽しかったですか?

楽しかったですね。友達も多かったですし、練習に行くのが楽しみでした。

——チームは強かったですか?

大塚 最高成績は、「ポップアスリート杯」という二つ決勝ブロックがある関東の大会での準優勝でしたので、強さ的にはまぁまぁかなと思います。その大会での打順は1番で、ポジションはキャッチャーかショートを守っていました。

——中学は硬式ではなく軟式野球部(宮前平中)出身なんですね。

大塚 硬式と迷ったのですが、少年野球の仲間たちも地元の中学でやると聞いて、仲間とまた一緒にやるのも良いなと思って、部活を選びました。

——中学の部活は、部活動改革などもある中で練習はどれくらい出来ていましたか?

大塚 平日は19時が最終下校だったので、それまでに練習を終わらせて時間内に帰宅していました。土日はどちらか半日の練習だったので、平日1日休み、土日どちらか休みの週休2日でした。

——練習は厳しい方でしたか?

大塚 全然厳しくなくて、ちょっと緩いくらいでした。市の大会ではいつも1、2回戦で負けていましたけど、それでも仲間と楽しくやっていました。

——中学でのポジションはピッチャー?

大塚 ちょっとはやっていましたけど、本格的にやり始めたのは高校からです。


高校監督の目に止まった「良い投げ方」

——市ケ尾高校で野球をやろうと思った理由は?

大塚 私学からもお誘いはあったのですが、将来社会に出ることを考えたら、しっかり勉強をして大学受験をした方がいいなと思って、自分の学力と野球の実力を考えて、文武両道の市ケ尾で野球をやろうと思いました。

——勉強と野球をどちらも頑張ることの良さは、どんなところにあると思いますか?

大塚 市ケ尾は自主練が多いので、「自分で考えて行動をしろ」と日頃から言われています。常に今の自分に足りないものは何かとか、限られた時間の中で今日は何をするべきかとか、自分で考えて練習をやらいないといけなくて、そういったことは勉強でもそうですが、社会に出てからも生きるかなと思っています。

——高校でピッチャーに転向したきっかけは?

大塚 1年生の頃に菅澤(悠)先生と1人ずつキャッチャボールをする機会があったのですが、そのときに「投げ方が良いから、次のオープ戦で1イニングくらい投げてみて」と言われて、それからですね。

——菅澤先生から見て「投げ方が良い」と映ったのは具体的には?

菅澤 キャッチボールをやったとき、左肩(グローブをつけた側の肩)がギリギリまで開かないんです。ボールの出所がギリギリまで見えないというか、急にボールがくる感じで、キャッチボールをする私が初めて「怖い!」と思うほどでした。中学時代のポジションを聞いたらショートだと言うので守らせてみたら、そんなに大したこともなかったので、もうこれはピッチャーだなと(笑)。

——変化球は高校に入ってから覚えたのですか?

大塚 ちゃんと磨いて投げたのは高校に入ってからですが、子どもの頃から遊びで投げたりはしていたので、全くゼロから変化球を覚えたわけではありません。

——高校でピッチャーを始めて140キロ以上のボールを投げられるようになった要因はどこにあると思いますか?

大塚 体重が増えたことが大きいと思います。チーム内で冬になったら〇〇キロまで増やそうという目標があるので、そこを目指して頑張っていました。あとは、市ケ尾は外部の色んなコーチ、トレーナーの方が来て下さるので、その指導が自分にはマッチしたように思います。

——今思えば、子どもの頃にこういうことをやっておいたのが良かったのかなと思うことはありますか?

大塚 小学校時代は父が監督だったのですが、監督、コーチに正しい投げ方を教えてもらいました。今でも投げた方が綺麗だと言われるので、小学校の時に正しい投げ方を教えてもらったのが良かったのかなと思います。

——今後の目標をお願いします。

自分が良いピッチングをして私学を倒して、来年の夏はベスト8に入ることです。

(取材・写真:永松欣也/試合写真提供・樫本ゆき)