広島時代は遠征に帯同できなかったことも…
「(NPB復帰は)長かったという感じはなかったですけど、1年1年、プロに戻ろうと思ってやっていた」。
昨年11月に行われたロッテの秋季キャンプでアピールに成功し、合格を勝ち取った三家和真。彼は4年前に広島でプレーしていたときは育成選手だったが、ロッテでは支配下選手登録として入団を決めた。
三家は11年に市立和歌山商から広島の育成ドラフト4位で入団。広島の育成時代は故障に泣いた。1年目の秋に右膝を負傷し、秋季キャンプ、翌年の春季キャンプはチームに帯同せず広島でリハビリに専念。長いリハビリを経て2年目の13年6月9日の中日戦で実戦復帰。
「試合中はいつ出番がきてもいいように体を動かしています」とマスコットバットを振り、気持ちを切らさないように出番に備えた。しかし育成選手だった三家に出場のチャンスが多く回ってくるわけではなかった。
夏のある日には、遠征に帯同できず、寮のテレビでひとり寂しく甲子園を観戦し、遠征に向かうチームメイトを見送ることもあった。
「正直、気持ちが落ちていたわけではないけど、何しているんだろうなあというのはあった。このままやったらホンマやばいなというのはありました。周りが遠征いくわけですから。メンバーに入っていないわけですから、悔しい気持ちはありました」と当時を振り返る。
結局、二軍で出場が5試合にとどまり、同年オフに戦力外通告を受けた。
信濃時代にはアルバイトを経験
14年からはNPB復帰を目指し、プロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグの信濃に入団。「長野のチームにいた時はアルバイトをしていました」と信濃時代は野球だけでなく、派遣会社に登録してアルバイトをしたそうだ。プレー面では、52試合に出場するも、同年限りで退団。15年からは石川でプレーした。
石川では1年目が打率.219、翌2年目の16年は打率.248、5本塁打、26打点の成績だった。石川での2年目のシーズンが終わったときに、ロッテの秋季キャンプの入団テストに参加。そこでのアピールが実り、合格を勝ち取るとともに、背番号も2ケタ「61」を手に入れた。
「カープでは育成で終わって、今回は支配下。背番号もすごく良い番号をいただいた。いい意味で、やらなあかんぞと言われているような、そういう気がする」と意気込む。
広島時代の仲間の活躍に刺激
また、広島時代に二軍でともに汗を流した鈴木誠也、中崎翔太らが一軍で活躍する姿に「練習や試合を一緒にしていた仲間だったので、いい刺激になりました」と話す。時間はかかったが、彼らと同じフィールドに立つ権利をつかんだ。「僕もこのままでは終われないと思っていた。また、こういうチャンスをいただきありがたい」とロッテ球団に感謝する。
広島時代は真っ赤に染まったマツダスタジアムでプレーすることができなかったが、6月2日から6月4日の交流戦ではマツダで古巣・広島と対戦する予定となっている。「広島を1回クビになった。いい意味で、いい形で見返すことができたら」と対戦を待ち望む。
対戦を実現するためにも、三家自身が一軍の舞台でプレーしていなければならない。「僕の中では、(この1年が)勝負だと思っている。そういう意味ではモチベーションが高くなる。チャンスをいただいたので、無駄な時間は過ごせない」。新天地となるロッテで活躍するため、必死にバットを振っていく。