史上初の珍事
3月26日、春のセンバツ・大会第7日目に甲子園史上初の珍事が起こった。
第2試合の福岡大大濠(福岡)-滋賀学園(滋賀)の一戦が1-1の延長15回引き分け再試合に。これもセンバツでは2014年の広島新庄(広島)-桐生第一(群馬)以来で3年ぶりのことであったが、なんと続く第3試合の福井工大福井(福井)-健大高崎(群馬)の試合も延長15回引き分け再試合。2試合連続で決着がつかず、引き分け再試合となったのだ。
2試合連続の再試合というのは夏を含めてもこれまで1度もなく、甲子園史上初めてのことだという。
これで日程も大きく変わった。一度は福岡大大濠と滋賀学園の再戦が27日の第4試合に組み込まれることが決まったが、27日と28日が4試合開催で埋まってしまったため、福井工大福井と健大高崎の再試合を組み込む枠がなくなってしまったのだ。
そこで、結局27日は最初の予定通りの3試合開催に戻り、28日に再試合となった2試合を開催。以降は1日ずつ繰り下げとなり、準々決勝と準決勝の間の休養日がなくなるという形で収まった。
これまでも多くのドラマを生んだ“延長再試合”。ファンの記憶に残る試合も多いかと思うが、改めて振り返ってみると、その中に後にプロの舞台へと進んでいる選手が多いことに気がつく。
斎藤佑樹は2度も経験
“延長再試合”と聞いて最も多くの人が思い浮かべるのが、2006年夏の決勝戦・早稲田実(西東京)-駒大苫小牧(南北海道)の一戦ではないだろうか。
早実は「ハンカチ王子」こと斎藤佑樹、駒大苫小牧は田中将大という大黒柱を擁し、両者一歩も譲らぬ投げ合いを演じた。特に斎藤は一人で15回+9回の24イニングを投げぬき、最後に田中を空振り三振に斬って試合を終わらせたあのシーンは記憶に新しい。
この試合の印象がとてつもなく大きいため忘れがちであるが、実は斎藤は春にも“延長再試合”を経験している。
2006年春のセンバツ・2回戦。関西(岡山)と対戦した試合は、7-4と早実が3点リードで9回を迎えるも、斎藤が粘る相手打線に捕まり3失点。7-7で延長戦に突入すると、その後は両チーム無得点で15回引き分け。なお、この時の関西は上田剛史(現ヤクルト)が「3番・中堅」で先発出場。森田一成(元阪神)とダース・ローマシュ匡(元日本ハム)が途中出場した。
過去にも板東英二、八木沢荘六らを輩出
ほかにも、2007年夏の甲子園といえば、佐賀北(佐賀)の“がばい旋風”。決勝戦で野村祐輔(現広島)、小林誠司(現巨人)を擁する広陵(広島)に大逆転勝ちしたことで記憶に残っている方も多いだろう。
その佐賀北は、2回戦で宇治山田商(三重)と引き分け再試合を経験している。宇治山田商は「3番・右翼」で中井大介(現巨人)がスタメン出場。7回からはマウンドにも登り、9回を1失点に抑える好投で引き分けに持ち込んだ。ところが、再試合では中井が6回4失点と打ち込まれ、2回戦敗退。この激闘を制した佐賀北が一気に頂点まで駆け上った。
古くは“白河の関超え”が最も近づいた瞬間と言われる1969年夏の決勝・松山商(愛媛)-三沢(青森)や、延長引き分け再試合の適用第一号となった魚津(富山)-徳島商(徳島)の激闘が有名だ。
松山商からは4番の谷岡潔が大洋へ、三沢からはエース・太田幸司がドラフト1位で近鉄、トップバッターを務めた八重沢憲一が東映フライヤーズへと入団。徳島商からは今やタレントとしてもお馴染みのエース・板東英二が中日へ。ほかにも広野翼が阪急、大野守と大坂雅彦が近鉄と、一気に4名もプロ入りを果たした。
1962年に春夏連覇を果たした作新学院(栃木)も、春のセンバツにおいて準々決勝で八幡商(滋賀)相手に延長再試合を経験。エースは後にロッテで完全試合も達成する八木沢荘六だった。八木沢はのちに自身のキャリアにおける「最も長かった試合」として八幡商戦を挙げている。プロでも幾多の修羅場をくぐり抜けた大投手にとっても、甲子園での熱闘が人生で一番過酷で厳しいものだったのだ。
果たして、延長再試合を経験した4校からプロへと進む選手が何人現れるのか。少し気は早いが、今から楽しみに待っていたい。