希望を与えた『リストラの星』
4度の“戦力外”を味わった男が、栃木にいる。
宮地克彦。尽誠学園高校から1989年のドラフト4位で西武に入団。その後は思うような出場機会を得られなかったが、8年目の2002年に伊原監督の下で主に3番打者として100試合に出場し、チームのリーグ制覇に貢献した。しかし、その翌年の2003年、ひざの故障が原因で出場機会が激減。同年オフに彼は1度目の戦力外通告を受ける。
現役続行を希望し、横浜ベイスターズ、大阪近鉄バファローズ、千葉ロッテマリーンズの入団テストを受けるも不合格。12球団合同トライアウトにも参加したが、手を挙げる球団はなかった。
しかし、最後の最後にダイエー(当時)が宮地氏にオファー。入団テストの末、新しいユニフォームで“第二の野球人生”をスタートさせた。
2005年シーズン、彼は目覚ましい活躍を遂げた。開幕スタメンの座を勝ち取ると、レギュラーに定着し、プロ16年目にして初の規定打席に到達した。さらに、外野手部門でベストナインを獲得。『リストラの星』として、多くの人に希望を与えた。
2度目の戦力外、指導者としての再出発
だが、無情にも翌2006年、故障が重なり自身2度目の戦力外を味わうこととなった。
「戦力外は1度経験済みだったので、免疫力があった」。宮地氏は当時を振り返り、こう笑い言ってのけた。
その後、宮地氏は北信越BCリーグの富山サンダーバーズに選手兼コーチに就任。自身、コーチ職は初めてで、プレーヤーとの両立は本当に大変だったという。
だが、宮地氏の指導は、多くの教え子たちに影響を与えた。それは、野球技術だけでなく、“人間力”という部分でも。
『プロに行けるのはほんの一握り。大半はプロに行けない。お腹一杯に野球をさせて諦めさせてあげる。そして社会に出て通用する人間を育てる』。
これが宮地氏の教育方針だった。
元阪神・野原氏が語る宮地氏
野原祐也。阪神ファンなら、ピンとくることだろう。彼も、宮地氏の教え子の一人だった。
富山サンダーバーズを経て阪神タイガースに4年間在籍。現在はメジャーリーグで活躍をした大家友和の立ち上げたクラブチームOBC高島の監督を務めている。
「プロに行けたのは宮地さんの個性を生かす指導と教育があったから」。野原氏は振り返る。
決して自身の考えを押し付けず、選手それぞれの性格を理解し、笑いとツッコミでチームを一枚岩にする。宮地氏は「コーチ職にしがみ付かない選手寄りの指導者」だった。
「正直マネしても宮地さんの様にはできませんね」と野原氏。監督という立場についた今、「宮地さんの指導者としての能力は突き抜けている」と気づかされたという。
現役のNPBの選手でも宮地さんの教えで才能を開花させた選手は数多い。しかし、宮地氏は「自分が育てた」とアピールするタイプではないため、この事実はあまり知られていない。
「人生の金メダルを」…宮地さんの金言
『お前は野球で成功出来なかったけど、人生の金メダルを取るために頑張れ』
2006年まで富山サンダーバーズでプレーした辻本聡氏は言う。「この言葉があったので自分は厳しい社会でも踏ん張れたし今の自分がある」。辻本氏が“野球人生”を引退する際に宮地氏から贈られた金言。この言葉を胸に、辻本氏は新たな人生を送っている。
現役当時、「年間90試合ある内の3試合位にしか出てないレベルの選手」、いわゆる“補欠組”だったという辻本氏。宮地氏はそんな“補欠組”を自宅に誘い、食事を振る舞った。
「謙虚さに加え見た目サラリーマンのような出で立ちですが、しゃべりだしたら『さんまさん』ですよ」と辻本氏は笑う。
そんな宮地氏の人柄に選手はついてくる。「食事に誘われる補欠組は宮地さんと時間を共にしていたので、腐るどころか勝手に良い雰囲気になっていました。試合中のベンチの声出しや裏方業なんかは補欠組が率先して精力的に行うのでチームは自然と一つになってましたね」と明かす。
「宮地さんは“指導者”でもあり“教育者”だった」と辻本氏は続ける。
指導者というのは、自身の生活のため、プロ育成が第一のミッション。しかし、宮地氏は選手一人ひとりに寄り添い、野球の技術だけでなく、一人の人間として育てていた。
辻本氏は現在、都内で不動産会社を経営。OBとして初のルートインBCリーグのスポンサーとなり、NPBを戦力外となった者やBCリーグ出身者を雇用している。
「プロを目指して夢叶わなかった自分が、プロを戦力外になった人を雇用できるまでなったのは宮地さんのお陰。今後も人生の金メダルを獲得するために、人のお役に立てる人間であり続けたい」と前を見据えた。
“教育者”としての活躍に期待
あれから10年。宮地氏は今、栃木にいる。
2010年、2008年から3年間二軍育成コーチを務めたソフトバンクから3度目の“戦力外”。そして昨年10月、西武ライオンズ二軍打撃兼外野守備走塁コーチを退任し、今年新設したBCリーグ栃木ゴールデンブレーブスのヘッドコーチに就任した。宮地氏自身、それが4度目の“戦力外”であった。
「選手を一人でも多くNPBに送り込むのも大きなミッションだが、9割以上が夢を果たせないのも現実。独立リーグは生涯務める会社ではないので、コミュニケーション能力は勿論、精神的に社会で通用する人間を育てる事は非常に大事」と宮地氏は語る。
宮地氏が乗り越えた4度の“戦力外”。その経験、苦難、思考法こそが、働くすべての人が現代社会で強く生き抜くためのヒントになるかもしれない。
現に、10年前の教え子たちはそれぞれの道で羽ばたいている。再び指導者としてBCリーグに戻った宮地氏。“教育者”として、今後の活躍が楽しみだ。
そして野球というツールで人間力向上を図る独立リーグに今後も期待をしたいものだ。