ゲレーロが巨人へ
来日1年目から本塁打を量産し、異国の地でそのまま本塁打王のタイトルを獲得。オフには大型契約で他球団へ移籍…。アレックス・ゲレーロは激動の2017年を終え、真価が問われる2年目のシーズンに挑む。
キューバ出身の31歳、右打ちの内野手。メジャーでの実績は2015年の106試合出場で11本塁打というのが主なところだったが、日本では1年目から130試合に出場し、打率.279で35本塁打、86打点の好成績。慣れない新天地で1年目から本塁打王に輝く活躍を見せた。
いわゆる“当たり”を引いた中日であったが、別れの時は突然訪れる。12月2日、球団がゲレーロ退団のリリースを発表。たしかに去就問題はかねてから囁かれていたが、あまりにもあっさりとした決定に驚いたファンも多かったことだろう。
中日への愛着は認めつつも、「ビジネスだ」という姿勢も一貫していた。巨人と新たに結んだ契約は2年総額8億円(推定)とも言われており、それだけのチャンスが転がっていたら逃す手はない。その分、背負うものも大きく、活躍できなければ厳しい現実が待っている。同リーグ内の移籍で相手の対策もよりきつくなってくるなか、大きな期待に応えていかなければならない。
本塁打王翌年の移籍は過去4例…
出入りの多い外国人選手とはいえ、タイトル翌年に移籍するというケースはレアだ。過去に4例だけあり、ゲレーロが5人目となる。
【タイトル獲得翌年に移籍した本塁打王】※NPB内の移籍に限る
1. チャーリー・マニエル(近鉄→ヤクルト)
[1980年] 118試 率.325(459-149) 本48 点129
[1981年] 81試 率.260(246-64) 本12 点36
2. ラリー・パリッシュ(ヤクルト→阪神)
[1989年] 130試 率.268(493-132) 本42 点103
[1990年] 105試 率.249(381-95) 本28 点80
3. タフィ・ローズ(近鉄→巨人)
[2003年] 138試 率.276(508-140) 本51 点117
[2004年] 134試 率.287(523-150) 本45 点99 ☆本塁打王
4. タイロン・ウッズ(横浜→中日)
[2004年] 130試 率.298(476-142) 本45 点103
[2005年] 135試 率.306(506-155) 本38 点103
5. アレックス・ゲレーロ(中日→巨人)
[2017年] 130試 率.279(469-131) 本35 点86
[2018年] ???
記念すべき“第1号”は、かつて「赤鬼」の愛称で親しまれたチャーリー・マニエル。1976年にヤクルトへ入団すると、3年間で102本塁打を放つ活躍。1978年は打率.312、39本塁打、107打点の成績を残すも、そのオフにトレードで近鉄へと移った。
近鉄でも同様の活躍を見せ、1979年と1980年には2年連続で本塁打王を獲得。しかし、その後の契約が難航して古巣・ヤクルトへ復帰する運びとなった。ところが、ヤクルトでは以前のような活躍を見せることはできず、そのまま1年で退団。その後はアメリカでメジャーリーグの監督を務めるなど指導者として実績を残している。
その後、2人目の例となったのが ヤクルトのラリー・パリッシュ。いきなりシーズン42本塁打をマークするなど一発の魅力はあったものの、三振や併殺打も多く1年限りで退団。翌1990年には同リーグの阪神へと移籍したが、膝の故障もあって同年限りで現役を引退した。ユニフォームを脱いだ後は、アメリカで指導者として活躍している。
ローズは連続本塁打王に
最近では2003年のタフィ・ローズがこのパターン。中村紀洋らとともに近鉄いてまえ打線を形成。51本塁打で3度目の本塁打王を獲得したが、オフに金銭面での折り合いがつかずに退団。セ・リーグの巨人へと移った。
すると、移籍1年目から134試合の出場で45本塁打をマーク。移籍を経ながら、2年連続で最多本塁打のタイトルを獲得した。なお、リーグをまたいで2年連続本塁打王に輝いた例は他になく、ローズがプロ野球史上初の快挙である。
最後のタイロン・ウッズも、横浜(現DeNA)で来日1年目から2年連続本塁打王になった後に中日へと移籍。1年目はタイトルこそ届かずも38本塁打を放って存在感を放ち、移籍2年目の2006年には47本塁打で3度目の本塁打王を受賞。その怪力ぶりでセ・リーグのライバルチームを震撼させた。
このように、かつては数字を落とすこともあったものの、直近2名のサンプルを見ると成績を維持することができている。ゲレーロはこのいい流れに乗って、新天地でも活躍することができるか。逆襲を期す巨人の注目ポイントのひとつになる。