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元西武・星野智樹さんに聞く“中継ぎ左腕”のリアル ~前編~

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現役時代、凡田夏之介と同じサイドスローの中継ぎ左腕として活躍した星野智樹さん

 BSスカパー!で絶賛放送中のアニメ『グラゼニ』。タイアップ企画の第3弾となる今回は、『グラゼニ』の主人公である凡田夏之介と同じ“サイドスローの中継ぎ左腕”に注目。かつて西武などで活躍し、現在は同球団のライオンズアカデミーでコーチを務めている星野智樹さんに、現役時代の話やリリーフの裏事情?などを直撃した。

 前編では、どのようにして“サイドスローの中継ぎ左腕”が生まれ、プロ野球という厳しい世界で長年にわたって活躍できたのかを振り返ってもらった。


はじまりは“ママさんソフト”


―― 今回は“サイドスローの中継ぎ左腕”ということで、星野さんにお話を伺えればと…

「オレじゃない方が良かったんじゃないの?(笑)」


―― 編集部では星野さんしかいないと(笑)満場一致でした。まずは、野球を始めたキッカケから伺えればと思います

「母親ですね。土日のママさんソフトについていったのがスタートです。記憶にあるのは、母親のグローブをはめて遊んでいたので左投げになったという。母親が左だったんです(笑)」


―― そんなこともあるんですね! ピッチャーはいつから始めたんですか?

「小学校4年生くらいから野球を始めて、5年生ですかね。左投げなので、(できるポジションは)ピッチャーか、ファーストか外野ですよね。最近の小学生はキャッチャーをやったり、左でもサードをやったり、セカンドやったりしているみたいですけど。その当時はピッチャーかファーストか外野なので、じゃあピッチャーやろうかと」




―― そこからずっとピッチャーとして?

「高校の時は外野もやりましたけど、ピッチャーですね。バッティングには自信を持っていたので、試合で投げないときは、外野をやったりしましたけれど」


―― では、高校のときはエースで4番ですか!?

「そうですね。1年生のときにベンチ入れていただいて。その前にも色々あるんですけど、自分の中では『入ってやったぞ』という感覚があり、まぁ運良く左だったっていうのもあったんですけどね。うちの高校の監督は左が好きだったので(笑)」

「中学校は軟式で、高校から硬式だったんですけど、(硬式球を使用している)ボーイズやリトルってあるじゃないですか。そこから入ってきた人が優遇され、軟式あがりということで、こっちは蚊帳の外。なにくそって思うじゃないですか。それで一生懸命練習して早くボールに慣れて、一年生の夏にベンチに入れていただいて『よっしゃ』と。『よし、まずは第一段階クリアかな』っていう感じだったんですよね」


夢は野球選手


―― “第一段階”というのは、プロに向けてということですか?

「もちろん。小学校の卒業文集だったかな?確か『夢は野球選手』って書いていたので、それで第一段階はいけたかなと」


―― その後、社会人のプリンスホテルを経てプロ入りされますが、社会人を選んだ理由は?

「一年生でベンチに入れていただいて、その後も普通にベンチ入れていただき、(プロ行く)自信があったんです。ただ、高校3年生の夏の大会の決勝でボロ負けして、その自信が一気に急降下したので」

「あとはお話をいただいたといいますか、自分でわかるじゃないですか。スカウトが来ているな、とか。監督のところに知らない人が来てるなっていうのが。スカウトだなって思いながら練習をしたり、試合をしたりしていたんですけど。自信ないなーって思って(笑)」

「当時の大学には、今でいう体罰みたいなものもまだ残っているという話もあったので。それで大学は嫌だなと思って(笑)、(監督に)社会人とかないですか?って聞いたら、たまたま高校の先輩がプリンスホテルに入っていて、一緒にできるなと。プリンスホテルに行きたいんですけど、と」

「最終的には、プロに行きたいと思ったときに(大学は4年だけど)社会人は高卒3年で行けるので、より近い方に行きたいと」


―― 結果的に最短でプロ入り(西武への入団)するわけですけど、どういったところが評価されたと思いますか?

「うーん、やっぱり“左”というところがあったんですかね。大きな大会で大きな仕事をしたわけじゃないんですけど、たまたま僕の投げた試合をスカウトが見てくれたというのが大きいかもしれないですね」

「当時は社会人も金属バットだったんですよ。そんななかで抑えたこともあり、アピールできたのかなと思います」


“平成の怪物”と共にプロの世界へ


―― そして1998年のドラフトで3位指名を受けましたが、その時の心境は?

「もちろん嬉しかったですけど、1位が偉大な方ですからね(笑) 僕が指名されたとき、向こうはまだ入るかわからなかったですけど、僕は断る理由がないので、一緒にできるのかな?っていう。あと、ちょうどドームの屋根が塞がるときだったので、これもなんかの縁なのかな、というか。指名されたのは4人でしたけど、4人で入れたらいいなっていうのはありましたね」


―― その後、俗にいう“松坂フィーバー”が訪れますけど、報道陣の数はすごかったですか?

「アマチュアから来たので、もともと知らないじゃないですか。だから、こんなものかって思って、オープン戦やらジャイアンツ戦とかに行ったりすると、倍以上いたりするんですよ。もうすげーなって(笑)」

「同じピッチャーで僕も先発したかったんですけど、向こうは右で僕は左なので、『こいつライバルだな』とかは1回も思わなかったですね」


キャンプイン後初の休日  キャンプイン後初の休日に闘犬センターを訪れ、プレゼントされた闘犬のぬいぐるみにご満悦の西武・松坂大輔投手(右)と星野智樹投手



契約金の使い道は…


―― 『グラゼニ』の中では、契約金は一般社会の退職金みたいなものだから手をつけるなってスカウトからアドバイスされる場面があるんですけど、星野さんはどうされました?

「契約金は親に渡しました。スカウトから言われたのかな?自分で使う分は自分で稼げって。21歳で持っていてもあれなんで、親に振り込んでおいてくださいと。ちょっと貰ったのかな? ほとんど渡しましたね」


―― 入団が決まったあと、ご自身で思い描いている未来像みたいなものはありました?

「それがね…浮かれていたのもあるんでしょうね。あまりなかったんです。嬉しいのが一番で、1年目は一軍と二軍を行ったり来たり。自分のできることを一生懸命やってはいましたけど、結果がそんなにでることもなく。無我夢中っていう言葉が合っているかどうかはわからないですけど、活躍したいなっていう気持ちはありました」


―― そんな中で1年目(99年)の4月6日、日本ハム戦でプロ初登板を果たします

「まずは中継ぎをやらせていただいて、今で言う谷間の先発で使っていただいた感じです。中継ぎをしているときも、自分の中では先発がしたくて。でも1年目ですからね。投げる欲求のほうが強かったですね。ただ、先発の方が気持ち的には嬉しくて、逆にガチガチになりやすかったといいますか、なってしまった試合がありましたね」


―― でも1年目でプロ初勝利(5月29日・ダイエー戦)を挙げました

「嬉しかったですね。当時、福岡ドームでしたけど、5回を投げて、6回だったかな?足がつったんですよ。緊張しすぎて。それで降板して結果的に勝たせてもらったんですけど、嬉しかったですね(笑) 当時の堤(義明)オーナーの誕生日だったので。まあだから何だって話ですけど(笑) でもオーナーの誕生日に勝てた自分がいるっていうね。それも重ねて嬉しかったですね」


―― プロ1年目は16試合に登板して1勝3敗、先発は5回、防御率3.47と、まずまずの成績だったのかなと思いますが

「途中で二軍に落ちたと思うんですけど、もうちょっといけたかなと。1年間を振り返ったときに思いましたね」


サイドスローへの転向が転機に


―― その後、2年目が9試合(0勝)、3年目が2試合(0勝1敗)、4年目が8試合(2勝0敗)、5年目が8試合(0勝)と、苦しいシーズンが続きました。

「そうなんですよ。一軍と二軍を行ったり来たりで4年~5年が経ち、自分の中ではやるべきことをやっていったんですけど、空回りというか、思うようなボールが投げられないという苦しさが大きかったです」


―― しかし2004年、伊東勤監督の1年目に56試合に登板。4勝3敗、防御率2.15という成績を残します。

「その前年の2003年の秋ですかね。日本シリーズを見ていて、阪神にいた(ジェフ・)ウィリアムスと、僕と同級生の吉野誠が左の中継ぎでいて、横から投げていたんです。僕はオーバースローで(プロに)入ってきたんですけど、投げ方を変えることには迷いがあって…」

「社会人から入って5年目、自分の中で“危ないな”っていうのを感じはじめていたときに、今の奥さんにいろいろ相談したんです。選手に相談してもね、選手はライバルなので。家で野球の話はほとんどしないんですけど、奥さんは野球やったことがない人なので『やればいいじゃん』って簡単に言うわけです(笑)やらなくてクビか、悔いなくやってクビか、自分で考えたらって言われて、やったら良いじゃんって(笑)」

「それもそうだなと思って。それもきっかけで腕を下げたらハマって。ちょうど渡辺久信SD(シニアディレクター)が二軍の監督だったのかな? で、教育リーグや社会人との試合で投げさせてもらって、もう面白いように三振がとれるんですよ(笑) これは来たなという感じで」

「原因を探ってみると、腰の回転が横なのに上から投げていたんです。それはアンバランスですよね。身体の使い方が斜めから横になったのに気づかず、腰の振りは横なのに手だけ上からじゃ、そりゃボールに力が伝わらないという結論になって。手を下げたら上手にハマって、本当にそこからですね。そこから9年か10年くらいできたので。色んな人に感謝です」


―― コーチに言われたりしたわけではないんですね

「そうですね。僕と奥さんで考えたというか、もう本当にやべーなって。もうクビだなっていうので、ちょっとやってみるわという感じです。で、コーチには横にしますと自分で言いました。コーチもやめとけとは言わないですよね。『ぼくが決めたんでいいんです』くらいのことは言ったんじゃないですかね。当時はまだあまりいなかったんですよね、パ・リーグで左のサイドスローは。今はいっぱいいますけど(笑)」


左の中継ぎとして必要不可欠な存在に


―― 56試合の登板はチーム最多でした。基本的にはワンポイントで?

「ほとんどワンポイントでした。打者が<左・右・左>だったら1イニング。<左・左・右・左>で次のイニングの頭までっていうのもありましたけど。だからセットアッパーの人って普通は試合数とイニング数がほぼ同じじゃないですか。ぼくは全然違ったので(56試合で46イニング)。本当にワンポイントでしたね」


―― 05年もチームトップの56試合、06年はチーム2位の58試合に登板しました。徐々に自信を深めていった感じですか?

「僕の場合は左バッターしか頭になかったので。セットアッパーの人は右も左も関係ないじゃないですか。僕なんてワンポイントで左のとこしかいかない。対戦チームの左バッターの特徴、その日の調子、1週間の調子をインプットしておけば、自分の調子さえ良ければ抑える自信はありましたね」


―― 登録されている左打者のデータは全員分?

「全部です。ミーティングもあるので。ただ、データとその日の調子って全然違う。仮に、ここに投げておけば抑えられるというポイントがあっても、その日の調子が良ければ打たれたりするので。それは自分の対戦の経験と、前回の対戦でどのように入ったのか、どのようにファウルをとったのか、自分の中での感覚を覚えておかないといけないので、そこだけは頭に入ってましたね」



左の中継ぎとして欠かせない存在に



肩を作らなかったことも!?


―― それまでとは一転、07年は37試合の登板にとどまりました。勤続疲労のようなものもありましたか?

「『疲れです』って一言で言うとわかりやすいかもしれないけど、考えすぎなところもあった。2年も3年も同じ選手と対戦していると、こういう感じで来るなっていうのがバレちゃう。バレるというのも変ですけど、こっちの勉強不足もあって、思うところに投げられなくなった。怪我とかじゃないんです。ぎっくり腰とかはあったかな。でも疲れは30~40%で、あとは技術的な問題でしたね」


―― シーズン50試合以上に登板するだけでなく、出番がなくてもブルペンで肩を作る日もあったかと思います。毎試合のように肩を作っていました?

「必ず1回は作るんですが、当時は松坂をはじめ、先発で完投してくれるピッチャーが結構いたんでね。特に松坂は『明日でいいっすか?』って僕が聞くと、『いいですよ!』って言ってくれたので(笑) そういったときは作らなくても良かったですけどね」

「あとは、良い場面で使ってもらっていたので、5~6回で点差がついてると、コーチが『どうする?』って聞いてくれる。作らなくていいですか?って聞くと『良いよ』って。点数が縮まってきたら『作って』って言われるので、そこは『わかりました』と。だから作らないときもありましたね」

「逆に(ブルペンで)ピッチングをしないでマウンドに行ったことが2回あります(笑) 座って試合を見てるじゃないですか。そしたら急に『行けるか?』って。ここで『行けません』って言ったら評価が下がると思って、そのままマウンドに行きましたね(笑) あとは、ぐぁー!って気合で(笑)。テンションを高めて、マウンドでの5球で満振りして。今思えば、よく怪我しなかったなって思います」


―― ちなみにその登板では?

「抑えました(笑)。逆にね、そういう時のほうが集中力も高まるというか。人のせいにはしませんけど、それで打たれたとしても、ね(笑)」


先輩のアドバイスと心境の変化


―― 07年を挟んで、08年にはキャリア最高の68試合に登板。4勝1敗、防御率2.66という成績を残します。

「監督交代のタイミングで雰囲気も少し変わり、またイチからという気持ちでアピールしなきゃっていうのもあったので。あとは、ちょうどライバルが、左の中継ぎで出てきそうなときだったのかな。もうひと踏ん張りしたいっていう思いもあったので。そういう思いだけじゃないですかね」


―― 心境の変化が要因だと

「自主トレで海外に連れてってもらったとき、一緒にいた(当時チームメイトだった)平尾(博嗣)さんと野球の話をするようになって、バッターは打って3割だと。ど真ん中に投げても打ち上げる。良いところに投げても打たれる。ではどうするのか? 真ん中に投げますと」

「その年はもう、真ん中からちょっとズラしていこうと。いままではビシッビシッと、ここから投げてという理想があって、おそらく調子が良かったからこそ、04年から頑張ったからこそ、色気を出してここから曲げてというような気持ちが強かった。色気が出てたんだと思います。だから落ちてきた」

「また原点に戻れたというか。勢いを大事にして、芯外せば飛ばないので、だったら少しの変化で良い。だからベンチでもよく言われましたよ。『ど真ん中に投げろ』って。いや、狙っているんですけどね…(笑)。『いかないっすよ』って反抗したときもありましたけどね」


―― 2008年は日本シリーズまで投げ抜きました。

「アジアシリーズもありましたね。おそらく合計で70試合くらい投げてます(笑)。クライマックスとかも入れたら。たしかクライマックスもマックスで、日本シリーズもマックス。7戦までいって、アジアシリーズも最後まで」

「ちょうどそのとき、(アレックス・)グラマンという左の抑えがいたんですけど、アジアシリーズの前に帰国したんですよ(笑)。そうすると左は僕しかいない。もうフル回転。ちょうその頃、松永(浩典)っていう左腕が出てきたぐらいだったので。監督も最後まで勝ちたかったんだと思います。休みたかったなっていう気持ちも多少は…(笑)。でも楽しかったので良い思い出です」


―― 日本シリーズの第7戦は勝利投手でしたね

「そうそう日本シリーズでね。それこそ平尾さんが打ってくれたので。1点差で負けている状況で投げて抑えて、逆転して最後はグラマンが抑えて、僕がこそっと勝利投手になった」


―― キャリアを振り返ったときに、どのあたりが一番充実していました?

「04年から08年あたりでしょうね。09年は少し息切れした感じだったので」


―― ちなみに09年は62試合に登板しています(笑)

「疲れたっていうのはなかったですけどね。楽しかったので。打たれてガクッとした日もありましたし、抑えてガッツポーズをした日もありましたし、トータルで考えれば楽しかったなっていう。同じ仲間でできましたし。優勝もできた」


―― そして2012年のオフにトライアウトで楽天へ

「そうですね。トライアウトのために練習してきたので。中途半端な気持ちじゃいけないから、もっとアピールしたいっていうのもありました。もちろん抑える気持ちで臨みましたし、結果的に抑えることも出来たので。アピールにはなったかなとは思います」


ケガ知らずの15年間


―― 15年間プレーしてきて、フォームなどで悩まれたことはありました?

「ちょうど投げはじめてハマったんですよ。ストレートもいくようになったし、スライダーもキレるようになって、カーブが抜けるようになった。最初はストレート、スライダー、カーブの3つしかなかったんです。最終的にはシュートも投げるようになったんですけどね。球がいかなくなってからはやはり考えました。1、2年は。それまでは腕の高さがどうとか考えたことなかったですけどね。自分の身体のリズムだけでしたね」


―― ケガによる離脱がそれほどなかったと思いますが、体の部分でケアしていたことなどありました?

「一応チームにトレーナーがいるので、毎日マッサージをしてもらってましたね。ありがたいことに怪我がなく、手術を必要とするような、靭帯を痛めたり、肘や肩も問題なかったので」

「キャンプの投げ始めの1週間だけ、『お、今年こそきたか』って思うんです(笑)やべーな、って思って1週間ほど経つと全然(笑)。怪我がなかったからこそ、フォームをいじらなかったっていうのもあるんですけどね。怪我をしていたら試行錯誤していたと思うんですけど、いじることもないかなと」

「ケア的には専属のトレーナーをつけていたわけでもなく、オフは……休みました。休むと言っても、今の選手はキャッチボールくらいすると思うんですよ。ただ、僕は半月くらい何もしなかったですね。もうだら~んとする。そこからまたケアしながら、投げる筋力をつけていくっていう。だから1月の10日前後から自主トレにいくので、12月の暮れ、12月の25日くらいからですかね、キャッチボールをするのは」


―― それが良かったのかもしれないですね

「成績が悪いときに(秋季)キャンプで投げ込みとかはしましたけどね。怪我がないんで投げられちゃう。投げるか投げないかは自分の気持ち次第。そのへんの自分のケア、判断っていうのは、コーチに『投げすぎじゃないか?』って言われることもなかったので、自分で判断していました」



―――――
【next...】
ブルペンの裏側や、星野さんが考えるリリーフにとって大事な要素とは? 
また、星野さんが得意・苦手としていた打者は?
来週更新予定の後編もお楽しみに!

取材・構成=平野由倫(ひらの・よしのり)
―――――


アニメ『グラゼニ』




放送日時:毎週金曜・22時30分 ☆再放送多数
原作:森高夕次/漫画・アダチケイジ「グラゼニ」(講談社『モーニング』連載)
監督:渡辺 歩(「ドラえもん」「宇宙兄弟」監督)
シリーズ構成・脚本:高屋敷英夫(「めぞん一刻」「逆境無頼カイジ」シリーズ構成)
キャラクターデザイン:大貫健一(「MAJOR」「ガンダムビルドファイターズ」キャラクターデザイン)
音楽:多田彰文(「ポケットモンスター劇場版」「魔法使いプリキュア」ED主題歌)
音響監督:辻谷耕史(「昭和元禄落語心中」「シムーン」)
音響制作:Ai Addiction(「地獄少女 宵伽」「ノラガミ」)
アニメーション制作:スタジオディーン(「昭和元禄落語心中」「GIANT KILLING」「さんかれあ」)
チャンネル:BSスカパー!(BS241/プレミアムサービス579)・スカパー!オンデマンド

※視聴方法
スカパー!のチャンネルまたはパック・セット等のご契約者は無料でご視聴いただけます。
・公式サイト:https://www.bs-sptv.com/gurazeni/
・公式Twitter:@sptv_gurazeni
製作:スカパー!・講談社


▼ 原作「グラゼニ」とは…
週刊『モーニング』(講談社)にて2010年12月より連載中の漫画「グラゼニ」。
成果主義であるプロ野球を“夢を売る徹底した格差社会”として、
「カネ」をテーマにプロ野球のシビアな世界と生活を懸けたプロ野球選手の日常を描く作品です。

リアルな描写で野球界でのファンも多く、第37回講談社漫画賞を受賞。
その他、「このマンガがすごい!2012」ではオトコ編・第2位に、
「全国書店員が選んだおすすめコミック2012」では8位にランクインするなど注目を集めました。

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