ニュース 2018.09.21. 10:20

「文武両道 ービジネス界で活躍する元球児ー」上杉健さん(前編)

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大きかった「小さな成功体験」


――野球を始めたきっかけを教えてください。
「野球は中学校の部活の軟式野球がスタートです。少年野球とかはやってなかったんですよ。父が転勤が多かったということが理由ですね。だから最初は左ピッチャーの牽制球がプレ-トを外さなくても良いということも知らなくて、ルールもよく分かっていませんでした(笑)。ただ子供のころから運動は得意でしたね。当時は男だったら野球をやるのが当然という感じで、あまり迷うことなく野球部に入りました」

――高校は野球の強豪校ではなく、地元の進学校である松本深志(長野)に進学されていますが、この時は野球のために進学したという感じではなかったのですか?
「当時の長野は松商学園が強かったんですけど、自分は勉強して高校に行こうと考えていたので松本深志を選びました。野球のためにという考えはなかったですね。

中学時代も途中までは成績も良くなかったのですが、数学の塾に通うようになって。その先生がかなりユニークな教え方をされる人だったんですね。それで問題が解けた時のひらめきが楽しいと思うようになって、他の教科もできるようになりました。その時の『小さな成功体験』が大きかったんだと思いますね」

――高校時代の野球の成績はどうだったんですか?
「自分が2年生の春に北信越大会には出場しました。ただ、その年の夏は上級生が気持ちが入りすぎてしまって初戦敗退。甲子園を目指してやっていましたが、正直行けそうだなという感覚はなかったです。自分は下級生のころから試合に出してもらって、3年生の時はピッチャーもいなかったので背番号1もつけていました。

運動能力の高さを評価していただいて、高校3年の時にはプロからもお話があったんですよ。先日お亡くなりになった岡田英津也さんが担当スカウトで、ちょうど西武から中日に移籍されたタイミングで『どっちの球団でもいいぞ』と言われたのをよく覚えていますね(笑)」

――どちらの球団でもいいというのは凄い話ですね。それでもプロを選ばずに早稲田大学に進学したのはなぜですか?
「高校の教員になりたいという気持ちが強かったんですね。それを考えてプロはお断りしました。筑波大と早稲田を考えていたのですが、高校の2年先輩が早稲田に行っていたこともあって最終的には早稲田にしました。ちょうどその年に人間科学部ができた年で自分は1期生になるのですが、それもラッキーでしたね。大学側もどれくらい入学をするか分からないからかなり多めに合格を出したみたいです」

――大学も高校と同様に野球で選んだわけではないんですね。
「どうしても野球をやりたいと思って入学したわけではないですね。ただ高校時代の監督が自分には野球を続けてほしいということを言っていたので、その期待には応えないといけないと思って入部しました」

――強豪校ではない進学校の野球部から名門である早稲田大の野球部に入って苦労したことはありませんでしたか?
「上下関係や古くからのしきたりが辛かったですね。毎朝6時にグラウンドに行かないといけない。雑用をしないといけない。何か不手際があると全員に集合がかかって連帯責任だと言われる。最初のころは毎日辞めたいと思っていました。

辞めるきっかけをずっと探していたのですが、高校の監督の顔が浮かんで何とか続けていました。ただ運動能力や体力には自信があったので、練習が辛いと思ったことはなかったですね」

――そんな中でも徐々に試合にも出るようになったのは、やはり実力があったから?
「これも実はラッキ―なんですよ。当時早稲田は優勝から遠ざかっていたのですが、1年生の冬に『鬼の連藏』と呼ばれた石井連藏さんが監督になったのですが、野手はとにかく体の大きいやつを集めろと言われてそれで一軍に呼ばれたんですね。その影響で最初は水口(栄二・元近鉄)が小さいという理由で外れていましたからね(笑)。

最初にリーグ戦に出た2年の春は全然結果が出なかったのですが、2年秋に先輩の穴埋めでまたチャンスをもらって、それから徐々にレギュラーに定着していきました。3年生になった時に正捕手候補だった選手が怪我をして、器用だからという理由でキャッチャーもやりました。バッティング練習のキャッチャー以外やったことがなかったのでビックリでしたね。(笑)。

小宮山さんから配球も考えてやれと言われたのですが、自分の出したサインどおりに投げてくれる小宮山さんがバッターを抑えていくと、徐々に楽しくなりましたね」

――大学4年生の春にはリ―グ優勝。ご自身も首位打者を獲得するなど活躍されましたが、卒業後の進路はどのように考えていましたか?
「単位もちゃんと取って教育実習も行って教員免許は取得していましたが、なんとなく野球は続けるだろうなというくらいで考えていました。そんな時に3つ上の先輩がリクルートで野球部を立ち上げるから来ないかという誘いをいただきました。それで面接に行ったら即内定だと言われて決まった感じですね。大学も人間科学部の1期生。監督が代わってメンバーに抜擢される。社会人野球も立ち上げメンバー。そういう意味では本当に運があると思いますね。4年生の春のリーグ戦で首位打者を獲得したのも、『運』が大きかったと思います」
(取材:西尾典文、写真:編集部)

 
後編は社会人野球、引退後、そして現在の事業についてお届けします。

 

上杉健さんプロフィール


1968年8月24日生まれ。長野県出身。長野県立深志高校から早稲田大学へ進学。4年時には東京六大学春季リーグ優勝、首位打者、ベストナインを獲得。卒業後は株式会社リクルートに入社。住宅情報事業部に配属。業務と並行して野球部でも活躍。野球部休部とともに株式会社ローソン野球部へ移籍。33歳まで野球部に在籍しその後社業へ戻るが、高校野球の監督をするという夢を実現させるべく、学校法人駿台学園にて教員へ転身。教員と高校野球の監督を経験。現在は株式会社GutsCareerSupportを設立し、高校生の年代からのキャリア教育、競技力向上における事業などを行っている。
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