ニュース 2019.03.21. 12:00

“古田の後継者”の現在地・後編 ~突然のトレードから引退、そしてお店を開くまで~

無断転載禁止

米野智人さんインタビュー・後編


 かつてヤクルトで“古田の後継者”として注目を浴びた米野智人さんのインタビュー。前編につづいて、今回は突然のトレード宣告からキャリアの振り返りを再開します。

 西武に移り、それから戦力外を経て地元の北海道へ。しかし、現役を引退した米野さんの姿は東京・下北沢にありました。

 プロ野球という夢の世界で長きに渡ってプレーした男がなぜ球界に残ることを選択しなかったのか、そして現在の道を選んだ経緯とは……?


トレード2日後に古巣と対戦


―― 2007年以降は故障にも悩まされてレギュラー定着とはならず。トレードも経験しましたね。

正直なところ、トレードの何年か前から行き詰まりを感じることはあって。
選手としてずっと良い方向に行っていなかったので、モヤモヤはありました。
ただ、それでも10年以上いたチームを突然離れるということは想定していなかったですね。
複雑ではありましたけど、選手として悩んでいる時期でもあったし、移籍した先で果たして戦力になれるのかなという不安ももちろんありました。



―― 本当に突然の知らせだということはよく聞きます。

僕の場合はシーズン中だったので尚更でしたね。
二軍の練習中に呼ばれたんですが、ヤクルト二軍のホーム・戸田で試合前に練習をしていて、実は相手が西武だった(笑)



―― 不思議というか、不気味というか……

3連戦の初戦で言われたんですよね。
まずクラブハウスに行ってくれと言われたので、行ってみたらトレードだと。西武だと。
すぐにロッカーを片付けなければならないのでまた戻り、もう翌日には所沢で入団会見があるよと。
明日11時から入団会見だからと言われて、とにかく慌てて支度をしていました。



―― 挨拶もできないような?

ロッカーを片付けてから、監督・コーチやチームメイトには挨拶しましたけどね。
西武に行ってきますと。本当にあれよあれよという間に進んでいきました。



―― そして翌日、所沢で「西武・米野」が誕生と

会見をしてその日はバタバタのまま終わり、トレード決定から2日後ですね。3連戦だったので3試合目。
僕はユニフォームなどもできていなかったので、とりあえず自主練習しといてくれと球団の方から言われていたんです。

……でも、その時の西武の二軍は故障者とかも多くて選手がいなくて。
行ってみたら、急遽出てくれと。ヤクルト戦ですよ?(笑)
トレード決まって2日後、出ない選手にユニフォームを借りて西武の一員としてヤクルトと戦いました。
本当に不思議な体験でしたね……。



―― 実際に体験した「トレード」って、想像とちがいましたか?

最初は新天地で慣れないこともありますけど、慣れていくものですよね。
徐々に選手たちと仲良くなって、もとから知っている選手もいましたし。
やることは野球で、これはどこも変わることはないですしね。
最初だけちょっとした転校生みたいな気分でしたけど。



―― その西武では外野に挑戦することになります。

ずっと子供の頃から捕手一筋でやってきましたからね。
プロにも捕手として入っていますし、逆に捕手じゃなかったらプロになれてなかったと思うので、逆に驚きでしたよ。



―― 捕手というポジションに未練があったとかは……?

コンバートと言っても捕手ができなくなるわけではないですからね。
捕り方を忘れた、投げ方を忘れたということはないので。
捕手として行き詰まりを感じていた時期でもありましたから、そこは受け入れて。



―― 前向きに捉えていたんですね。

当時の西武は右の外野手が不足している時期でもあったので、
球団の方からはチャンスじゃないかと言ってもらえたんですよね。
たしかにやってみて損はないかなと思って。新しいチャレンジと思ってやってみるかなと。
仮にその後捕手に戻るとなってもいい経験になるかなと思ったので。



―― その目論見通り、手薄な右の外野手兼緊急時の捕手として一軍に帯同する機会も増えました。

ベンチ入りの枠は決まっているものなので、やはり使い勝手はいいですよね。
捕手は経験者しかできないポジションなので、緊急時に捕手ができるというのが武器になったと思います。
まだ戦力でいられるなと思いましたね。



―― 2012年と言えば、何と言っても忘れられないのが福岡での逆転満塁弾ですね。

あれで2年くらいは選手寿命伸びたんじゃないかって感じですよね(笑)


―― 絶対的守護神として君臨していたファルケンボーグ投手から打った一発でした。

当時のファルケンと言ったらもう無敵でした。
出てくればほとんどのファンはもう試合終わりだと思うレベルで。
その時は調子が良くなかったみたいでしたけど、ボールはやっぱり速かったですよ。



―― 今でも鮮明に覚えているものですか?

そうですね。
途中出場だったんですけど、前の中村剛也が歩かされて満塁になって。
自分でもよく打ったなと思いますけどね。



―― ラジオの実況の方が泣きながら絶叫していたということでも話題になりました。

僕というよりも、その反響がかなりありましたよね。
斉藤一美さん(文化放送アナウンサー)が泣いてくれたこともあって、なんか動画とかも作られていて(笑)
反響も大きかったですし、僕にとってもいろいろな意味で大きな出来事でした。
コンバート1年目でもありましたし、そこからしばらく一軍で戦うこともできたので。
1本の本塁打ですけど、それ以上にインパクトは大きかったかなと思います。



最後は地元・北海道で


―― 結局、西武では2010年の途中から2015年までプレーされました。

はじめてのトレードでどうなることかと思いましたけど、振り返ってみると本当に良い経験でしたね。


―― そして、西武を退団した後に地元・北海道の日本ハムから声がかかります。

西武は戦力外という形で、プロ野球選手としてのキャリアも終盤だなというのはありました。
ただ、自分としては選手としてまだまだできるという気持ちもありましたね。体力的にも、技術的にも。



―― 地元に帰るというと特別な気持ちもありましたか?

もちろん地元というのもありますが、日本ハムというチームは前から気になっていて。
あのチームスタイルや雰囲気などに興味があって、実は最後はファイターズでやれたらなと思うこともあったんですよね。



―― 新天地では選手だけでなく兼任コーチという役割も付きました。

正直、選手一本でやりたいという気持ちはありました。
キャリアは終盤だとは思いつつも、まだできるという想いもあったので。



―― 二軍バッテリーコーチ補佐という役割は……?

基本的には若い捕手にアドバイスをするというより、調整中の投手のボールを受けて状態をピッチングコーチに報告するということがメインでしたね。


―― 日本ハムでは1試合の出場にとどまり、引退を決断されます。

シーズン中に球団の方とお話をして、という感じでした。


―― 球団側は翌年も契約を、という報道もありましたが……?

一応、次の年もという話はありました。
ただ、もう選手としては厳しいかなという気持ちが大きかった。
心残りとかはなく、ここまでかなと。



―― スパっと決断されたんですね。

選手としてそう思ったらやめようと思っていたので、その時が来たなと。
もちろん、迷うことはありましたけどね。
最後は中途半端にやるよりは……という気持ちで。そんな甘い世界じゃないのでね。



―― 最後シーズン中に限界を感じた瞬間があったのでしょうか。

心の持ちようも難しかったんですよね。
契約のこともありましたけど、ふと「おれ選手だっけ……」と思う瞬間があったり。
そういう意味では葛藤もあるシーズンでしたね。






引退後は“食”の世界へ


―― そしてユニフォームを脱いだ後、野球界には残らないという決断をされました。

引退を決めていた時から考えていたことがあって、その道に進むという決断になりました。


―― もともと興味があったという?

現役時代から食について興味・関心がありました。
野球というスポーツをやってきて、自分でも食事の大切さはよく分かっていましたので。
運動と食事はリンクしていて、とても大事な要素であると。
お店をやっていくなかで、いろいろ発信していけたらと思いました。



―― オーナーという肩書きですが、お店にいることが多いですかね?

普段からお店で働いていますよ。


―― 野球やキャッチャーの経験が役に立っていることもありますか?

実はつながっている部分も多いかなと思います。
夫婦でやっているお店ですけど、この規模でもやることはたくさんあって。
例えば仕込みだったり、準備まわりのこと、発注も自分でやって……。
そう考えると、キャッチャーも他のポジションより仕事量が多いじゃないですか。
また、常に考えながら行動して、試してメモを取ってまた行動というサイクルは変わらないですね。



―― 今後の野望を教えてください。

今までやってきたことが野球・スポーツで、今は食事とか健康。このふたつを繋げることですね。
職種に関係なく食事って生きていくうえで大事なことですし、そこの関心を高めていきたいです。
パフォーマンス向上を支えるのが食事だと広く知ってもらいたいですね。


あとは野球も教えられるので、もちろん野球に携わる活動も。
自分が経験してきたことを、子どもたちに伝えていけたら。
今度開催される<キャッチャー育成講座>もそうですけど、そういった活動も継続していきたいですね。



―――――
取材=尾崎直也
撮影=兼子愼一郎
―――――


お店の情報



▼ 店名
NATURAL KITCHEN inning+(ナチュラルキッチンイニングプラス)

▼ 予約・お問い合わせ
03-5712-3588

▼ 住所
東京都世田谷区代田5-34-21 ハイランド202

▼ 営業時間
11:30~16:00
18:00~23:00
【日曜営業】
※日曜・祝日は11:30〜18:00

▼ 定休日
火曜日・毎月第3月曜日
(祝日の場合は営業、翌平日がお休み)

▼ 席数
23席


☆詳細は公式HPまで


元プロ野球選手に学ぶキャッチャー育成講座



“正捕手不在”――
現在の野球界にとって大きな課題となっている出来事の一つではないだろうか。
その要因として、”キャッチャーとは何か?”を教えられる指導者がいないことも大きいだろう。

「キャッチャーは専門職であり、経験者でないと教えられない。」と語るのは野村克也氏。

その野村氏が育てた名捕手・古田敦也氏から、直々に
“キャッチャーとは何か?”
を学んできた元ヤクルトスワローズの捕手・米野智人氏を講師に迎え、
キャッチング編・スローイング編・配球&戦略編の全3回に分けて開催する。

⇒ お申し込みはコチラのページから


▼ タイトル
元プロ野球選手に学ぶキャッチャー育成講座-vol.2-スローイング編

▼ 日時
2019年3月26日(火) 19:30~21:00

・当日のスケジュール
19:00 開場
19:30 講義開始
21:00 終了予定

▼ 会場
FROMONE SPORTS BASE
(〒104-0032東京都中央区八丁堀4-9-4)
※「八丁堀」駅・A1出口から徒歩1分

▼ 登壇者
米野 智人(よねの・ともひと)

1982年、北海道生まれ。
北照高校から1999年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。
強肩の捕手として「ポスト古田」と期待を集めた。
2001年に一軍初昇格、2002年に初安打、初めてのサヨナラ安打を記録した。
古田敦也が選手兼監督になった2006年に自己最多の116試合に出場し、7本塁打を放っている。
2010年シーズン途中に埼玉西武ライオンズに移籍。
2012年から外野手に転向した。
2016年に北海道日本ハムファイターズで選手兼コーチ補佐としてプレーしたのち引退。
現在は東京・下北沢でカフェレストラン「inning+(イニングプラス)」を経営している。

▼ こんな方におすすめ
・野球指導者
・プレイヤー(高校生以上)
・キャッチャーをやられている方
・他のポジションを守っているが、キャッチャーというポジションのことも知りたい方

▼ 参加費
学生:2000円
一般:4000円

▼ 定員
50名

▼ 持ち物
筆記用具
※学生の方は学生証もご持参ください。

▼ 主催
ウッチャエ(株式会社IforC)
FROMONE SPORTS ACADEMY運営事務局

▼ 協力
サッカーキング、ベースボールキング


☆注意事項・お問い合わせは以下のページでご確認ください。
⇒ https://fromone-sc.jp/academy/1255


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