マリナーズのイチローが21日、東京ドームで行われた『2019 MGM MLB 開幕戦』の第2戦終了後に記者会見を開き、現役引退を表明した。
会見場には多くの報道陣が詰めかけ、ユニフォーム姿のまま会見場に登場したイチローは、「こんなにいるの?ビックリするわ」と詰めかけた報道陣の多さに笑顔を見せながら、「こんな遅い時間にお集まりいただいてありがとうございます」と謝辞を述べ、「今日のゲームを最後に、日本で9年、アメリカで19年目に突入したところだったんですが、現役生活に終止符を打ち、引退することとなりました」と自身の口から「現役引退」を改めて表明した。
「今日はもう、とことんお付き合いしようかなと思った」というイチローの計らいもあり、24時頃に始まった記者会見は約1時間20分にも及んだ。そして、30を超える質問一つひとつに真摯に向き合い、自分の頭の中を整理しながら丁寧に、ときにユーモアを交えながら、筆舌に尽くしがたい自身の思いや経験を言葉にした。
▼ イチロー
最後にこのユニフォームを着て、この日を迎えられたこと、大変幸せに感じています。この28年を振返ると、あまりにも長い時間だったので、ここでひとつひとつ振り返るというのが難しいということもあって、ここではこれまで応援していただいた方々への感謝の思い、そして球団関係者、チームメイトに感謝を申し上げて、皆様からの質問があればできる限りお答えしたいというふうに思っております。
――「引退」を決めたタイミングと理由
タイミングはですね、キャンプ終盤ですね。日本に……戻ってくる何日前ですかねぇ……。何日前と、はっきりお伝えできないですけど、終盤に入ったときです。もともと日本でプレーするところまでが契約上の予定だったこともあったんですけど。キャンプ終盤でも結果が出せずに、それを覆すことができなかったということですね。
――後悔、やり残したことは?
いや、今日のあの球場での出来事。あんなもの見せられたら、後悔などあろうはずがありません。もちろんもっとできたことはあると思いますけど。結果を残すために、自分なりに重ねてきたこと、人よりも頑張ったということはとても言えないですけど。そんなことは全く無いですけど、自分なりに頑張ってきたというのははっきり言えるので。これを重ねてきて、重ねることでしか後悔を生まないということはできないのではないかなと思います。
――子どもたちへのメッセージ
シンプルだなぁ。メッセージか。苦手なんだな。僕が。野球だけじゃなくても良いんですよね? 自分が夢中になれるもの、熱中できるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので。そういうものを見つけてほしいです。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていくことができると思います。それが見つからないと、壁が出てきてしまうと諦めてしまうので。いろんなことにトライして、向くか向かないでなくて、自分の好きなものを見つけて欲しいと思います。
――思い返して一番印象に残っているシーン
うーん。きょうを除いてですよね? このあと、時間が経ったらきょうのことが真っ先に思い浮かぶことは間違いないです。ただそれを除くとすれば、色々な記録に立ち向かってきたわけですけど、そういうものは大したことではないというか。それを目指してやってきたんですけどね。いずれ、僕ら後輩が先輩たちの記録を抜いていくというのは、しなくてはいけないことでもあると思うんです。ですけど、そのことにそれほど大きな意味はないというか、そんな風にきょうの瞬間を体験すると、すごく小さく見えてしまうんですよね。
その点で、たとえば10年200本つづけてきたこととか、MVPをとったとか、オールスターで(MVP)とったとかは、本当に小さなことに過ぎないいう風に思います。きょうのあの舞台に立てたことというのは、去年の5月以降、ゲームに出られない状況になって、そのあともチームと練習は続けてきたわけですけど、それを最後まで成し遂げられなければ、きょうのこの日はなかったと思うんですよ。
いままで残してきた記録は、いずれ超えられるんですけど、去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれないという風なささやかな誇りを生んだ日々だったんですね。そのことが去年の話ですから、近いということもあるんですけど、どの記録よりも自分の中では、ほんの少しだけ誇りを持てたことかなと思います。
――たくさんのファンに支えられ、どんなチームでも応援してくれたファンの存在について
ゲーム後にあんなことが起こるとは、とても想像してなかったですけど、実際にそれが起きた。19年目のシーズンをアメリカで迎えていたんですけど、なかなか日本のファンの方の熱量というのは普段感じることが難しいんですね。でも久しぶりにこうやって東京ドームに来て、ゲームは静かに、基本的には静かに進んでいくんですけど。なんとなく印象として、日本の方は表現するのが苦手というか、そんな印象があったんですけど、それは完全に覆りましたね。
内側に持っている熱い想いが確実にそこにある。それを表現したときの、その迫力というものは想像できなかったことです。もっとも特別な瞬間になりますけど、あるときまでは自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見てくれている人も喜んでくれるかなと思っていたんですけど、ニューヨークに行ったあとくらいですかね、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきたんですね。その点でファンの方々の存在なくして、自分のエネルギーはまったく生まれないと言っていいいと思います。え、おかしなこと言ってます? 大丈夫?(会見場笑)
――貫いたもの、貫けたものは何でしょう?
(間をおいて)野球のことを愛したことだと思います。これは変わることがなかったですね。おかしなこと言ってます? 僕? 大丈夫?
――野球の捉え方が変わったということは
プロ野球生活でですか? ないですね。これはないです。ただ、子供の頃からプロ野球選手になることが夢で、それが叶って、最初の2年、18、19の頃は一軍に行ったり来たり……行ったり来たりじゃおかしいか? 行ったり行かなかったり……行ったり来たりっていつもいるみたいな感じ? あれ、どうやって言えばいいんだ……一軍に行ったり、二軍に行ったり、これが正しいか。94年、3年目ですね。仰木監督と出会って、レギュラーで初めて使って頂いたわけですけど、この年まででしたね。楽しかったの。急に番付を上げられちゃって。それはしんどかったです。力以上の評価をされるというのはとても苦しいですよね。
もちろんやりがいがあって、達成感を味わうこと、満足感を感じることはたくさんあった。ただ楽しいかと問われるとそれは違う。そういう時間を過ごしてきて、将来はまた楽しい野球をやりたいなという風に、これはまた皮肉なもので、プロ野球選手なりたいという夢が叶った後は、そうじゃない野球をまた夢見ている自分があるときから存在した。でもこれは中途半端にプロ野球選手を過ごした人には待っていないもの。たとえば草野球ですよね。やっぱりプロ野球でそれなりに苦しんだ人間でないと、草野球は楽しむことはできないのではないかと思っているので。これからはそんな野球をやってみたいなという風に思いますね。おかしなこと言ってます? 大丈夫?
――今回の来日を「大きなギフト」と表現したが、私たちの方がギフトをもらった。これから新たな「ギフト」はあるのか?
そんなアナウンサーっぽいこと言わないでくださいよ。(笑) ないですよそんなの。むちゃ言わないでくださいよ。
でもこれ本当に大きなギフトで。去年の3月頭ににオファーをいただいて、きょうまでの流れがあるんですけど、あそこで終わってもおかしくないですよね。去年の春に終わっていても、まったくおかしくない状態でしたから。今この状況が信じられないです。
あのとき考えていたのは、オフの間、アメリカでプレーするために準備するのは神戸の球場なんですけど、そこで寒い時期に練習するのでへこむんですよ。心折れるんです。でもそんなときも、いつも仲間に支えられてやってきたんですけど、最後はいままで自分なりに訓練を重ねてきたこの神戸の球場で、ひっそりと終わるのかなぁという風にあの当時は想像していたので、夢みたいですよ。これも大きなギフトです。質問に答えてないですけど、僕からのギフトはないです。
――涙なく笑顔が印象的。楽しかった?
えーっと…これも純粋に楽しいということではないんですよね。やっぱり誰かの思いを背負うというのはそれなりに重いことなので。そうやって一打席一打席立つのって簡単ではない。すごく疲れました。やっぱり一本ヒットを打ちたかったですし、応えたいって当然ですよね。僕に感情がないと思っている人もいるみたいですけど、あるんですよ。意外とあるんですよ。結果を残して最後を迎えられたらいいなと思っていたんですけど、それは叶わずで。それでもあんな風に球場に残ってくれて。そうしないですけど、死んでもいいという気持ちは、こういうことなんだなと。そうしないですけど、そういう表現をするときってこういう時なんだなと思いました。
――「最低50まで現役」と言っていたが、日本でプレーする選択肢はなかった?
なかったです。(理由は?)それはここでは言えないな。最低50までって本当に思ってたし、でもそれは叶わずで、「有言不実行の男」になってしまったんですけど、そう表現していなかったらここまでできなかっただろうなと思います。だから難しいかもしれないけど、言葉にすることは目標に近づく1つの方法ではないかなと思います。
――これからの膨大な時間をどうつかうのか?
いまはちょっとわからないですねぇ。でもたぶん明日もトレーニングしてますよ。じっとしていられないから、動き回ってると思います。ゆっくりしたいとか全然ない。動き回ってますよ。
――生き様で伝えられたこと、伝わっていたら嬉しいこと
「生き様」というのはよくわからないんですけど……「生き方」というふうに考えれば、うん。人より頑張ることなんて、とてもできないんですよね。あくまでも“はかり”は自分の中にある。自分なりに限界を見ながら、ちょっと超えていくというのを繰り返す。そうするといつの日かこんな自分になっているのか、と言う状態になって。一つひとつの積み重ねでしか自分を超えていけないと思うんですよね。
一気に高みにいこうとすると、いまの自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと考えているので。地道に進むしかない。進むだけではないですね。あるときは後退だけしかしないかもしれないけど、でも自分が決めたことを信じてやっていく。でもそれは正解とは限らないんですよね。間違ったことを続けてしまうこともあるんですけど、でもそうやって遠回りすることでしか本当の自分に出会えないというか、そんな気もしている。
きょうのゲーム後のファンの方の気持ちですよね。それを見たときに、ひょっとしたらそんなところを見ていただいていたのかなと。そうだとすれば嬉しかったし、そうじゃなくても嬉しいです、あれは。
――現役を終えたら、指導者になったり、タレントになる人もいる。引退後は何になる?
何になるんだろうね…。そもそもカタカナの「イチロー」ってどうなんですかね? 元カタカナのイチローみたいになるんですかね? どうなんですかね。いや「元イチロー」ってぼく「一朗」だし。音は同じだけど、書くときどうなるんだろうね?
どうしよっか…。何になる…。うーん。でも監督は絶対無理ですよ。これは絶対がつきますよ。人望がない。本当に。人望がないんですよ、僕。(ありますよ。)いやー無理ですね。それくらいの判断能力は備えているので。ただどうでしょうね。プロの世界というよりも、やっぱりアマチュアとプロの壁が日本の場合は特殊な形で存在しているので、今日をもってどうなんですかね? そういうルールって。いままでややこしいじゃないですか。たとえば極端に言って、自分に高校生の子供がいたりしても教えられないってことですよね? そうですよね? それって変じゃないですか。今日をもって「元イチロー」になるので。それは小さな子供なのか、中学生なのか高校生なのか大学生なのかわからないですけど、そこには興味があります。
――以前にも引退がよぎったことは?
引退というより、クビになるのではないかはいつもありましたね。ニューヨークに行ってからは毎日そうでしたね。マイアミもそうでしたけど。ニューヨークって特殊な場所です。マイアミも違った意味で特殊な場所です。毎日、そんなメンタリティで過ごしていたんですね。クビになるときは、まさにその時だろうと思っていたので、しょっちゅうありました。
――今回決意された理由は?
マリナーズ以外に行く気持ちがなかったのが大きいですよね。去年、シアトルに戻していただいて、本当にうれしかったし、先ほどキャンプ前のオファーがある前の話をしましたけど、そのあと、5月にゲームに出られなくなる。あのときも、そのタイミングでもおかしくないんですよね。でもこの春に向けてまだ可能性があると伝えられていたので、自分なりに頑張ってこられたと思います。
――ベンチに戻る際に菊池選手が号泣されていて…
号泣中の号泣でした。アイツ。びっくりしましたよ。それを見てこっちはわらけてきましたけどね。(どんな会話を?)それはプライベートなんで。それを雄星が伝えるのはかまわないですけど、僕が伝えることはないですね。それはそうでしょ。2人の会話だから。しかも僕から声をかけているんで、それをここでこんなこと言いましたって僕が言うのはバカでしょ(笑)絶対に信頼されないもんね、そんな人間は。それはダメです。
――アメリカのファンへ
アメリカのファンの方々は最初は厳しかったですよ。2001年のキャンプでは「日本に帰れ」ってしょっちゅう言われたましたよ。結果を残したあとの敬意というか、手のひらを返すという言い方もできてしまうので。ただ言葉じゃなくて行動で示したときの敬意の示し方というのは迫力はありますよね。なかなか入れてもらえないんですけど、入れてもらえた後、認めてもらえた後はすごく近くなるというような印象で、がっちり関係ができる。シアトルのファンとはそれができたと、僕の勝手な印象ですけど。
ニューヨークは、厳しいところでしたね。でもやればそれこそどこよりも熱い思いがある。マイアミはラテンの文化が強い印象で、圧はそれほどないんですけど、でも結果を残さなかったら絶対に人は来てくれない、そんな場所でした。それぞれに特色があって面白かったし、それぞれと関係が築けた。特徴はありましたけど。アメリカは広いなと。ファンの特徴を見るだけでアメリカは広いなという印象です。
でもやっぱり、最後にシアトルのユニフォームを着て、もうセーフコ・フィールドではなくなってしまいましたけど、姿をお見せできなかったのは申し訳なく思います。
――キャンプ中に着ているユニークなTシャツが話題になっていたが、「もう限界」とか「マジ無理」とか、あれはイチロー選手の心情を表していたり、何かのアピールだったりするのでしょうか?
そこは、言うと急に野暮ったくなるから。言わない方がいいんだよね。それは、見る側の解釈だから。そう捉えれば、そう捉えることもできるし、全然関係ない可能性もあるし、それでいいんじゃないですかね。
単に好きに楽しんでいただきたい。だって、そういうものでしょ?それをいちいち説明すると本当に野暮ったい。(言わない方が粋だということですかね?)粋って自分いえないけど。言うと無粋であることは間違いないでしょうね。
――イチローさんを支えてきた(奥さん)弓子さんへの言葉というのは、ちょっと野暮かなとも思いますが、今日はあえて聞かせてください。
いやーー、うーん、頑張ってくれましたね。一番頑張ってくれたと思います。僕はアメリカで3089本のヒットを打ったわけですけど。妻はですね、およそ、僕はゲーム前にホームのときはおにぎりを食べるんです。妻が握ってくれたものを球場に持っていって食べるわけですけど、その数がですね、2800くらいだったんですよ。3000いきたかったみたいですね。そこは、うーん、3000個握らせてあげたかったなーと思います。
妻もそうですけど、とにかく頑張ってくれました。僕はゆっくりするつもりないですけど、妻にはゆっくりしてもらいたいという風に思っています。それと一弓ですね。一弓というのは、ご存じない方もいらっしゃると思いますけど、我が家の愛犬ですね。柴犬ですけど。現在17歳と7カ月。今年で18歳になろうかという、柴犬なんですけど、さすがにですね、おじいちゃんになってきて、毎日フラフラなんですけど、(力を込めた言い方で)懸命に生きている。
その姿をみていたら、オレはこれ頑張らなきゃなって。これはジョークでなく、本当に思いました。懸命に生きる姿。2001年に生まれて、2002年にシアトルの我が家にきたんですけど、まさか最後まで一緒に、僕が現役を終えるときまで、一緒に過ごせるとは思っていなかったので、大変感慨深いですね。一弓の姿というのは。本当に妻と一弓には……感謝の思いしかないですね。
――これまで数多くの決断と戦ってきたと思います。00年オフのポスティングでの移籍、06年のWBC参加、07年オフのマリナーズとの契約延長、そして今回。12年のニューヨークでのトレード移籍もそうかもしれないですけど、その中で今までで一番考えぬいて決断したものは?
これ順番つけられないですね。それぞれが一番だと思います。ただアメリカでプレーするために当時、いまとは違う形のポスティングシステムでしたけど、自分の思いだけでは当然かなわないので、当然球団からの了承がないといけない。そのときに、誰を、こちら側、こちら側と言うと敵味方みたいでおかしいですけど、球団にいる誰かを口説かないと、説得しないといけない。その時に一番に浮かんだのが、仰木監督ですね。
その何年か前から、アメリカでプレーしたい思いを伝えていたこともあったんですけど、仰木監督だったら、美味しいご飯でお酒を飲ませたら、飲ませたらってあえて言ってますけど。これは上手くんじゃないかと思っていたら、まんまと上手くいって(笑) これがなかったら何も始まらなかったので、口説く相手に仰木監督を選んだのは大きかったなと思いますね。
また、ダメだダメだと仰っていたものが、お酒でこんなに変わってくれるんだと。お酒の力をまざまざと見ましたし、でもやっぱり洒落た人だったなという風に思いますね。仰木監督から学んだもの、うん、計り知れないと思います。
――イチロー選手が現役時代に一番我慢したもの、我慢したことは?
難しい質問だなー。ぼく我慢できない人なんですよ。我慢が苦手で、楽なこと楽なことを重ねてきた感じなんです。自分ができること、やりたいことを重ねているので、我慢の感覚がないんですけど。
とにかく体を動かしたくてしょうがないので、こんなに動かしていけないということで、それを我慢することはたくさんありました。それ以外は、自分にとってなるべくストレスがないように考えて行動してきたつもりなので。
家では、妻が色々と考えて料理を作ってくれますけど。これがロードに出ると、なんでもいいわけですよ。たぶん無茶苦茶ですよ、ロードの食生活なんて。我慢できないから、そういうことも。そんな感じなんです。だから、いま聞かれたような主旨の我慢は、思い当たらないですね。おかしなこと言ってます、僕?
――今年マリナーズに菊池雄星選手が入って、去年はエンゼルスに大谷翔平選手が入りました。イチロー選手が後輩たちに託したいものとか、託すものは?
雄星のデビューの日に、僕がこの日を迎えた、引退を迎えたというのは、何かいいなと思っていて。「もうちゃんとやれよ!」という思いですね。
短い時間でしたけれども、すごくいい子で。やっぱりね、色んな選手を見てきたんですけど、左ピッチャーの先発って、変わっている子が多いんですよ。天才肌が多いという言い方ができるんですが、アメリカでもまぁ多いです。だから、こんなに、良い子いるのかなって感じですよ。ここまで。きょうまで。
でも、キャンプ地から日本に飛行機で移動するわけですけど、チームはドレスコードですね、服装のルールが黒のセットアップ、ジャージのセットアップでOK。長旅なので、できるだけ楽にという配慮ですけど。「じゃあ雄星、俺たちどうする?」って。アリゾナを発つときはいいんですけど、日本に着いたときに、「さすがにジャージはダメだろ」って2人で話をしていたんですよね。「そうですね、イチローさんどうするんですか?」って。僕は「中はTシャツだけど、セットアップで、一応ジャケット着てるようにしようかな」と。「じゃぁ、僕もそうします」って言うんですよ。
で、キャンプ地を発つときのバスの中で、僕もそうでしたけど、みんな黒のジャージのセットアップでバスに乗り込んできて。雄星とは席が近かったので、「いや、雄星やっぱ、これはダメだよな」って。日本に着いたときに「メジャーリーガーこれじゃダメだろ」って。「そうですよね」ってバスの中でも言っていたんですよ。で、羽田に着いたらアイツ、黒のジャージでしたからね(会見場笑)。(声のボリュームを上げて)いや、コイツ大物だなと思ってぶったまげました。本人には、その真相をまだ聞いていないんですけど、何があったのかわからないんですけど、やっぱ左ピッチャーって変わったやつ多いなって思ったんですよ。でもスケール感は出てました。頑張ってほしいです。
ま、翔平はちゃんとケガを治して、物理的なスケールも大きいので、アメリカの選手にもサイズで劣らない。あのサイズで、あの機敏な動きができるというのはいないですからね。それだけで。世界一の選手にならないといけないんですよ。
――イチロー選手が感じている野球の魅力、イチロー選手のいない野球の楽しみ方
団体競技なんですけど、個人競技というところですかね。これ野球の面白いところですね。チームが勝てば、それでいいかというと、全然そうではない。個人としても結果を残さないと、生きていくことはできない。本来、チームとして勝っていれば、チームのクオリティは高いはずなので、それでいいんじゃないかという考え方もできると思うんですけど、決してそうではない。その厳しさが面白いというか、魅力であることは間違いないですね。同じ瞬間がないというところ。必ず、どの瞬間も違う。これは飽きがこないですよね。
楽しみ方。2001年に僕がアメリカにきてから、2019年現在の野球は、全く違うものになりました。頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある。それは現場にいる人はみんな感じていることだと思う。これがどうやって変化していくのか。次の5年、10年、しばらくはこの流れは変わらないと思うんですけど。本来は野球というのは…いや、ダメだ、これを言うと問題になりそうだ。(会見場笑)
頭を使わないとできない競技なんですよ、本来は。でもそうではなくなってきている。どうも気持ち悪くて。野球の発祥はアメリカですから、その野球がそうなってきている。危機感を持っている人ってけっこういると思うんですよね。だから、日本の野球がアメリカの野球に追従する必要なんてまったくなくて、やはり日本の野球は、頭を使う面白い野球であってほしいなと思います。アメリカのこの流れはとまらないので。せめて日本の野球は決して変わってはいけないところ。大切にしなくてはいけないものを、大切にしてほしいなという風に思います。
――子供の頃からの夢であるプロ野球選手になり、これだけ成功して、イチローさんはいま何を得たと思うか?
成功かどうかってよくわからないですよね。どこからが成功で、そうじゃないのかっていうのは、それは僕には判断できないので、だから成功という言葉が嫌いなんですけど。
メジャーリーグに挑戦するというのは、どの世界でも新しいことに挑戦するというのは大変な勇気だと思うんですけど、あえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かない。という判断基準では、後悔を生むだけだなと思います。やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときにどんな結果がでようとも、後悔はないと思うんですよ。じゃあ自分なりの成功を勝ち取ったところで、達成感があるのかと言えば、それも疑問だと思う。僕には。基本的には、やりたいと思ったことに向かっていきたいですよね。
で、何を得たか。うーん、「まぁこんなものかなぁ」という感覚ですかね。それは200本もっと打ちたかったし、できると思ったし、1年目にチームは116勝して、その次の2年間も93勝して、勝つのってそんなに難しいことじゃないなと思っていたんですけど、大変なことです。勝利するのは。この感覚を得たことは大きいかもしれないですね。
――神戸に何か恩返ししたいという思いは?
神戸は特別な街です、僕にとって。恩返しかー。恩返しって何をすることなんですかね。僕は選手を続けることでしか、できないんじゃないかと思っていたこともあって、できるだけ長く現役を続けたいと思っていたこともあるんですね。恩返し…うーん、じゃぁ税金を少しでも払えるように頑張ります。
――日米で活躍する選手は、甲子園、プロ野球、メジャーという流れがあるが、自身の経験から、もっとこんな制度があればいいな、メジャーに挑戦しやすかった、もしくは日本のプロ野球に残ってもっとやりたかったという、もしもの話なんですけど。こういうことがあればいいなという提言をいただきたい。
制度に関して、僕は詳しくないんですけど。でも日本で基礎を作る。自分が将来、MLBでプレーする、MLBで将来活躍するための礎をつくるという考え方であれば、できるだけ早くというのもわかりますけど、日本の野球で鍛えられることってたくさんあるので、制度だけに目を向けるのはフェアではないかと思いますね。
(特に日本の野球で鍛えられたことは?)
基本的な基礎の動きは、メジャーよりも日本の中学生レベルの方が上手い可能性がある。それは、チームとしての連係もあるじゃないですか、そんなの言わなくたってできますからね、日本では。こちらではなかなかそこは。個人の運動能力は高いですけど、そこにはかなり苦しんで、諦めましたよね。
――大谷と対戦したかった? 大谷選手の今後に期待することあれば
先ほども言いましたが、世界一の選手にならなきゃいけない選手だと考えています。翔平との対戦は残念ですけど、僕はできればピッチャーで、翔平がバッターでやりたかったです。(会見場笑)そこは誤解なきよう。
(どんなメジャーリーガーになっていくと思いますか?)
そこは占い師に聞いてもらわないとわからないかな?(笑)でも、打つことも投げることもやるのであれば、僕は1シーズンごとに、1シーズンピッチャー、次のシーズンは打者として、サイヤングとホームラン王をとったら。そんなこと考えることもできないけど、その想像を翔平はさせるじゃないですか、一瞬。その時点で明らかに違う、人とは明らかに違う選手。その二刀流であれば面白いと思いますね。ピッチャーとして20勝するシーズンがあって、次の年に50本打ってMVPとったらバケモノですよね。でも想像できなくないですからね。
――野球選手じゃないという自分を想像して
違う野球選手になってます。草野球の話をしましたよね。だからそっちで、それが楽しくてやっていると思うんですけど、そうするときっと草野球を極めたいと思うんでしょうね。真剣に草野球をやるという野球選手になるんじゃないですか、結局は。
――「僕の夢は一流のプロ野球戦になることです」から始まる小学生時代の卒業文集を書いた当時の自分に言いたいこと
お前、契約金1億ももらえないよって(笑) 夢は大きくと言いますけどね、なかなか難しいですよ、ドライチの1億と掲げていましたけど、全然遠く及ばなかったですよ。ある意味では挫折ですよね、それは。
こんな終わり方でいいのかな?キュッとしたいよね、最後は。
――以前のマリナーズ時代、自分は孤独を感じながらプレーしていると言っていたが、ヤンキース、マーリンズを経て、孤独感はずっと感じていたのか、それとも変わってきたか
現在それはまったくないです。今日の段階ではまったくないです。それとは少し違うかもしれないですけど、アメリカにきて、メジャーにきて、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人です。このことは、(間をおいて)外国人になったことで人のことを慮ったり、人の痛みを想像したり、今までになかった自分が現れたんですよね。
この体験というのは、本を読んだり情報をとることはできても、体験しないと自分の中からは生まれないので、孤独を感じて苦しんだこと、多々ありました。ありましたけど、その体験は、未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと、いまは思います。だから辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、エネルギーのある元気な時に、そのことに立ち向かっていく。それは人として、すごく重要なことなんではないかと感じています。
締まったね、最後! 長い時間ありがとうございました。眠いでしょ、皆さんも。じゃあ、そろそろ帰りますか、ね。
イチローから報道陣・ファンへのギフト
会見場には多くの報道陣が詰めかけ、ユニフォーム姿のまま会見場に登場したイチローは、「こんなにいるの?ビックリするわ」と詰めかけた報道陣の多さに笑顔を見せながら、「こんな遅い時間にお集まりいただいてありがとうございます」と謝辞を述べ、「今日のゲームを最後に、日本で9年、アメリカで19年目に突入したところだったんですが、現役生活に終止符を打ち、引退することとなりました」と自身の口から「現役引退」を改めて表明した。
「今日はもう、とことんお付き合いしようかなと思った」というイチローの計らいもあり、24時頃に始まった記者会見は約1時間20分にも及んだ。そして、30を超える質問一つひとつに真摯に向き合い、自分の頭の中を整理しながら丁寧に、ときにユーモアを交えながら、筆舌に尽くしがたい自身の思いや経験を言葉にした。
▼ イチロー
最後にこのユニフォームを着て、この日を迎えられたこと、大変幸せに感じています。この28年を振返ると、あまりにも長い時間だったので、ここでひとつひとつ振り返るというのが難しいということもあって、ここではこれまで応援していただいた方々への感謝の思い、そして球団関係者、チームメイトに感謝を申し上げて、皆様からの質問があればできる限りお答えしたいというふうに思っております。
ささやかな誇りを生んだ日々
――「引退」を決めたタイミングと理由
タイミングはですね、キャンプ終盤ですね。日本に……戻ってくる何日前ですかねぇ……。何日前と、はっきりお伝えできないですけど、終盤に入ったときです。もともと日本でプレーするところまでが契約上の予定だったこともあったんですけど。キャンプ終盤でも結果が出せずに、それを覆すことができなかったということですね。
――後悔、やり残したことは?
いや、今日のあの球場での出来事。あんなもの見せられたら、後悔などあろうはずがありません。もちろんもっとできたことはあると思いますけど。結果を残すために、自分なりに重ねてきたこと、人よりも頑張ったということはとても言えないですけど。そんなことは全く無いですけど、自分なりに頑張ってきたというのははっきり言えるので。これを重ねてきて、重ねることでしか後悔を生まないということはできないのではないかなと思います。
――子どもたちへのメッセージ
シンプルだなぁ。メッセージか。苦手なんだな。僕が。野球だけじゃなくても良いんですよね? 自分が夢中になれるもの、熱中できるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので。そういうものを見つけてほしいです。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていくことができると思います。それが見つからないと、壁が出てきてしまうと諦めてしまうので。いろんなことにトライして、向くか向かないでなくて、自分の好きなものを見つけて欲しいと思います。
――思い返して一番印象に残っているシーン
うーん。きょうを除いてですよね? このあと、時間が経ったらきょうのことが真っ先に思い浮かぶことは間違いないです。ただそれを除くとすれば、色々な記録に立ち向かってきたわけですけど、そういうものは大したことではないというか。それを目指してやってきたんですけどね。いずれ、僕ら後輩が先輩たちの記録を抜いていくというのは、しなくてはいけないことでもあると思うんです。ですけど、そのことにそれほど大きな意味はないというか、そんな風にきょうの瞬間を体験すると、すごく小さく見えてしまうんですよね。
その点で、たとえば10年200本つづけてきたこととか、MVPをとったとか、オールスターで(MVP)とったとかは、本当に小さなことに過ぎないいう風に思います。きょうのあの舞台に立てたことというのは、去年の5月以降、ゲームに出られない状況になって、そのあともチームと練習は続けてきたわけですけど、それを最後まで成し遂げられなければ、きょうのこの日はなかったと思うんですよ。
いままで残してきた記録は、いずれ超えられるんですけど、去年の5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれないという風なささやかな誇りを生んだ日々だったんですね。そのことが去年の話ですから、近いということもあるんですけど、どの記録よりも自分の中では、ほんの少しだけ誇りを持てたことかなと思います。
喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきた
――たくさんのファンに支えられ、どんなチームでも応援してくれたファンの存在について
ゲーム後にあんなことが起こるとは、とても想像してなかったですけど、実際にそれが起きた。19年目のシーズンをアメリカで迎えていたんですけど、なかなか日本のファンの方の熱量というのは普段感じることが難しいんですね。でも久しぶりにこうやって東京ドームに来て、ゲームは静かに、基本的には静かに進んでいくんですけど。なんとなく印象として、日本の方は表現するのが苦手というか、そんな印象があったんですけど、それは完全に覆りましたね。
内側に持っている熱い想いが確実にそこにある。それを表現したときの、その迫力というものは想像できなかったことです。もっとも特別な瞬間になりますけど、あるときまでは自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見てくれている人も喜んでくれるかなと思っていたんですけど、ニューヨークに行ったあとくらいですかね、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきたんですね。その点でファンの方々の存在なくして、自分のエネルギーはまったく生まれないと言っていいいと思います。え、おかしなこと言ってます? 大丈夫?(会見場笑)
――貫いたもの、貫けたものは何でしょう?
(間をおいて)野球のことを愛したことだと思います。これは変わることがなかったですね。おかしなこと言ってます? 僕? 大丈夫?
――野球の捉え方が変わったということは
プロ野球生活でですか? ないですね。これはないです。ただ、子供の頃からプロ野球選手になることが夢で、それが叶って、最初の2年、18、19の頃は一軍に行ったり来たり……行ったり来たりじゃおかしいか? 行ったり行かなかったり……行ったり来たりっていつもいるみたいな感じ? あれ、どうやって言えばいいんだ……一軍に行ったり、二軍に行ったり、これが正しいか。94年、3年目ですね。仰木監督と出会って、レギュラーで初めて使って頂いたわけですけど、この年まででしたね。楽しかったの。急に番付を上げられちゃって。それはしんどかったです。力以上の評価をされるというのはとても苦しいですよね。
もちろんやりがいがあって、達成感を味わうこと、満足感を感じることはたくさんあった。ただ楽しいかと問われるとそれは違う。そういう時間を過ごしてきて、将来はまた楽しい野球をやりたいなという風に、これはまた皮肉なもので、プロ野球選手なりたいという夢が叶った後は、そうじゃない野球をまた夢見ている自分があるときから存在した。でもこれは中途半端にプロ野球選手を過ごした人には待っていないもの。たとえば草野球ですよね。やっぱりプロ野球でそれなりに苦しんだ人間でないと、草野球は楽しむことはできないのではないかと思っているので。これからはそんな野球をやってみたいなという風に思いますね。おかしなこと言ってます? 大丈夫?
――今回の来日を「大きなギフト」と表現したが、私たちの方がギフトをもらった。これから新たな「ギフト」はあるのか?
そんなアナウンサーっぽいこと言わないでくださいよ。(笑) ないですよそんなの。むちゃ言わないでくださいよ。
でもこれ本当に大きなギフトで。去年の3月頭ににオファーをいただいて、きょうまでの流れがあるんですけど、あそこで終わってもおかしくないですよね。去年の春に終わっていても、まったくおかしくない状態でしたから。今この状況が信じられないです。
あのとき考えていたのは、オフの間、アメリカでプレーするために準備するのは神戸の球場なんですけど、そこで寒い時期に練習するのでへこむんですよ。心折れるんです。でもそんなときも、いつも仲間に支えられてやってきたんですけど、最後はいままで自分なりに訓練を重ねてきたこの神戸の球場で、ひっそりと終わるのかなぁという風にあの当時は想像していたので、夢みたいですよ。これも大きなギフトです。質問に答えてないですけど、僕からのギフトはないです。
死んでもいいという気持ちは、こういうことなんだなと
――涙なく笑顔が印象的。楽しかった?
えーっと…これも純粋に楽しいということではないんですよね。やっぱり誰かの思いを背負うというのはそれなりに重いことなので。そうやって一打席一打席立つのって簡単ではない。すごく疲れました。やっぱり一本ヒットを打ちたかったですし、応えたいって当然ですよね。僕に感情がないと思っている人もいるみたいですけど、あるんですよ。意外とあるんですよ。結果を残して最後を迎えられたらいいなと思っていたんですけど、それは叶わずで。それでもあんな風に球場に残ってくれて。そうしないですけど、死んでもいいという気持ちは、こういうことなんだなと。そうしないですけど、そういう表現をするときってこういう時なんだなと思いました。
――「最低50まで現役」と言っていたが、日本でプレーする選択肢はなかった?
なかったです。(理由は?)それはここでは言えないな。最低50までって本当に思ってたし、でもそれは叶わずで、「有言不実行の男」になってしまったんですけど、そう表現していなかったらここまでできなかっただろうなと思います。だから難しいかもしれないけど、言葉にすることは目標に近づく1つの方法ではないかなと思います。
――これからの膨大な時間をどうつかうのか?
いまはちょっとわからないですねぇ。でもたぶん明日もトレーニングしてますよ。じっとしていられないから、動き回ってると思います。ゆっくりしたいとか全然ない。動き回ってますよ。
――生き様で伝えられたこと、伝わっていたら嬉しいこと
「生き様」というのはよくわからないんですけど……「生き方」というふうに考えれば、うん。人より頑張ることなんて、とてもできないんですよね。あくまでも“はかり”は自分の中にある。自分なりに限界を見ながら、ちょっと超えていくというのを繰り返す。そうするといつの日かこんな自分になっているのか、と言う状態になって。一つひとつの積み重ねでしか自分を超えていけないと思うんですよね。
一気に高みにいこうとすると、いまの自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと考えているので。地道に進むしかない。進むだけではないですね。あるときは後退だけしかしないかもしれないけど、でも自分が決めたことを信じてやっていく。でもそれは正解とは限らないんですよね。間違ったことを続けてしまうこともあるんですけど、でもそうやって遠回りすることでしか本当の自分に出会えないというか、そんな気もしている。
きょうのゲーム後のファンの方の気持ちですよね。それを見たときに、ひょっとしたらそんなところを見ていただいていたのかなと。そうだとすれば嬉しかったし、そうじゃなくても嬉しいです、あれは。
――現役を終えたら、指導者になったり、タレントになる人もいる。引退後は何になる?
何になるんだろうね…。そもそもカタカナの「イチロー」ってどうなんですかね? 元カタカナのイチローみたいになるんですかね? どうなんですかね。いや「元イチロー」ってぼく「一朗」だし。音は同じだけど、書くときどうなるんだろうね?
どうしよっか…。何になる…。うーん。でも監督は絶対無理ですよ。これは絶対がつきますよ。人望がない。本当に。人望がないんですよ、僕。(ありますよ。)いやー無理ですね。それくらいの判断能力は備えているので。ただどうでしょうね。プロの世界というよりも、やっぱりアマチュアとプロの壁が日本の場合は特殊な形で存在しているので、今日をもってどうなんですかね? そういうルールって。いままでややこしいじゃないですか。たとえば極端に言って、自分に高校生の子供がいたりしても教えられないってことですよね? そうですよね? それって変じゃないですか。今日をもって「元イチロー」になるので。それは小さな子供なのか、中学生なのか高校生なのか大学生なのかわからないですけど、そこには興味があります。
クビになるのではないかはいつもありました
――以前にも引退がよぎったことは?
引退というより、クビになるのではないかはいつもありましたね。ニューヨークに行ってからは毎日そうでしたね。マイアミもそうでしたけど。ニューヨークって特殊な場所です。マイアミも違った意味で特殊な場所です。毎日、そんなメンタリティで過ごしていたんですね。クビになるときは、まさにその時だろうと思っていたので、しょっちゅうありました。
――今回決意された理由は?
マリナーズ以外に行く気持ちがなかったのが大きいですよね。去年、シアトルに戻していただいて、本当にうれしかったし、先ほどキャンプ前のオファーがある前の話をしましたけど、そのあと、5月にゲームに出られなくなる。あのときも、そのタイミングでもおかしくないんですよね。でもこの春に向けてまだ可能性があると伝えられていたので、自分なりに頑張ってこられたと思います。
――ベンチに戻る際に菊池選手が号泣されていて…
号泣中の号泣でした。アイツ。びっくりしましたよ。それを見てこっちはわらけてきましたけどね。(どんな会話を?)それはプライベートなんで。それを雄星が伝えるのはかまわないですけど、僕が伝えることはないですね。それはそうでしょ。2人の会話だから。しかも僕から声をかけているんで、それをここでこんなこと言いましたって僕が言うのはバカでしょ(笑)絶対に信頼されないもんね、そんな人間は。それはダメです。
――アメリカのファンへ
アメリカのファンの方々は最初は厳しかったですよ。2001年のキャンプでは「日本に帰れ」ってしょっちゅう言われたましたよ。結果を残したあとの敬意というか、手のひらを返すという言い方もできてしまうので。ただ言葉じゃなくて行動で示したときの敬意の示し方というのは迫力はありますよね。なかなか入れてもらえないんですけど、入れてもらえた後、認めてもらえた後はすごく近くなるというような印象で、がっちり関係ができる。シアトルのファンとはそれができたと、僕の勝手な印象ですけど。
ニューヨークは、厳しいところでしたね。でもやればそれこそどこよりも熱い思いがある。マイアミはラテンの文化が強い印象で、圧はそれほどないんですけど、でも結果を残さなかったら絶対に人は来てくれない、そんな場所でした。それぞれに特色があって面白かったし、それぞれと関係が築けた。特徴はありましたけど。アメリカは広いなと。ファンの特徴を見るだけでアメリカは広いなという印象です。
でもやっぱり、最後にシアトルのユニフォームを着て、もうセーフコ・フィールドではなくなってしまいましたけど、姿をお見せできなかったのは申し訳なく思います。
――キャンプ中に着ているユニークなTシャツが話題になっていたが、「もう限界」とか「マジ無理」とか、あれはイチロー選手の心情を表していたり、何かのアピールだったりするのでしょうか?
そこは、言うと急に野暮ったくなるから。言わない方がいいんだよね。それは、見る側の解釈だから。そう捉えれば、そう捉えることもできるし、全然関係ない可能性もあるし、それでいいんじゃないですかね。
単に好きに楽しんでいただきたい。だって、そういうものでしょ?それをいちいち説明すると本当に野暮ったい。(言わない方が粋だということですかね?)粋って自分いえないけど。言うと無粋であることは間違いないでしょうね。
奥さんと愛犬、そして恩師への感謝
――イチローさんを支えてきた(奥さん)弓子さんへの言葉というのは、ちょっと野暮かなとも思いますが、今日はあえて聞かせてください。
いやーー、うーん、頑張ってくれましたね。一番頑張ってくれたと思います。僕はアメリカで3089本のヒットを打ったわけですけど。妻はですね、およそ、僕はゲーム前にホームのときはおにぎりを食べるんです。妻が握ってくれたものを球場に持っていって食べるわけですけど、その数がですね、2800くらいだったんですよ。3000いきたかったみたいですね。そこは、うーん、3000個握らせてあげたかったなーと思います。
妻もそうですけど、とにかく頑張ってくれました。僕はゆっくりするつもりないですけど、妻にはゆっくりしてもらいたいという風に思っています。それと一弓ですね。一弓というのは、ご存じない方もいらっしゃると思いますけど、我が家の愛犬ですね。柴犬ですけど。現在17歳と7カ月。今年で18歳になろうかという、柴犬なんですけど、さすがにですね、おじいちゃんになってきて、毎日フラフラなんですけど、(力を込めた言い方で)懸命に生きている。
その姿をみていたら、オレはこれ頑張らなきゃなって。これはジョークでなく、本当に思いました。懸命に生きる姿。2001年に生まれて、2002年にシアトルの我が家にきたんですけど、まさか最後まで一緒に、僕が現役を終えるときまで、一緒に過ごせるとは思っていなかったので、大変感慨深いですね。一弓の姿というのは。本当に妻と一弓には……感謝の思いしかないですね。
――これまで数多くの決断と戦ってきたと思います。00年オフのポスティングでの移籍、06年のWBC参加、07年オフのマリナーズとの契約延長、そして今回。12年のニューヨークでのトレード移籍もそうかもしれないですけど、その中で今までで一番考えぬいて決断したものは?
これ順番つけられないですね。それぞれが一番だと思います。ただアメリカでプレーするために当時、いまとは違う形のポスティングシステムでしたけど、自分の思いだけでは当然かなわないので、当然球団からの了承がないといけない。そのときに、誰を、こちら側、こちら側と言うと敵味方みたいでおかしいですけど、球団にいる誰かを口説かないと、説得しないといけない。その時に一番に浮かんだのが、仰木監督ですね。
その何年か前から、アメリカでプレーしたい思いを伝えていたこともあったんですけど、仰木監督だったら、美味しいご飯でお酒を飲ませたら、飲ませたらってあえて言ってますけど。これは上手くんじゃないかと思っていたら、まんまと上手くいって(笑) これがなかったら何も始まらなかったので、口説く相手に仰木監督を選んだのは大きかったなと思いますね。
また、ダメだダメだと仰っていたものが、お酒でこんなに変わってくれるんだと。お酒の力をまざまざと見ましたし、でもやっぱり洒落た人だったなという風に思いますね。仰木監督から学んだもの、うん、計り知れないと思います。
――イチロー選手が現役時代に一番我慢したもの、我慢したことは?
難しい質問だなー。ぼく我慢できない人なんですよ。我慢が苦手で、楽なこと楽なことを重ねてきた感じなんです。自分ができること、やりたいことを重ねているので、我慢の感覚がないんですけど。
とにかく体を動かしたくてしょうがないので、こんなに動かしていけないということで、それを我慢することはたくさんありました。それ以外は、自分にとってなるべくストレスがないように考えて行動してきたつもりなので。
家では、妻が色々と考えて料理を作ってくれますけど。これがロードに出ると、なんでもいいわけですよ。たぶん無茶苦茶ですよ、ロードの食生活なんて。我慢できないから、そういうことも。そんな感じなんです。だから、いま聞かれたような主旨の我慢は、思い当たらないですね。おかしなこと言ってます、僕?
次世代へのエール
――今年マリナーズに菊池雄星選手が入って、去年はエンゼルスに大谷翔平選手が入りました。イチロー選手が後輩たちに託したいものとか、託すものは?
雄星のデビューの日に、僕がこの日を迎えた、引退を迎えたというのは、何かいいなと思っていて。「もうちゃんとやれよ!」という思いですね。
短い時間でしたけれども、すごくいい子で。やっぱりね、色んな選手を見てきたんですけど、左ピッチャーの先発って、変わっている子が多いんですよ。天才肌が多いという言い方ができるんですが、アメリカでもまぁ多いです。だから、こんなに、良い子いるのかなって感じですよ。ここまで。きょうまで。
でも、キャンプ地から日本に飛行機で移動するわけですけど、チームはドレスコードですね、服装のルールが黒のセットアップ、ジャージのセットアップでOK。長旅なので、できるだけ楽にという配慮ですけど。「じゃあ雄星、俺たちどうする?」って。アリゾナを発つときはいいんですけど、日本に着いたときに、「さすがにジャージはダメだろ」って2人で話をしていたんですよね。「そうですね、イチローさんどうするんですか?」って。僕は「中はTシャツだけど、セットアップで、一応ジャケット着てるようにしようかな」と。「じゃぁ、僕もそうします」って言うんですよ。
で、キャンプ地を発つときのバスの中で、僕もそうでしたけど、みんな黒のジャージのセットアップでバスに乗り込んできて。雄星とは席が近かったので、「いや、雄星やっぱ、これはダメだよな」って。日本に着いたときに「メジャーリーガーこれじゃダメだろ」って。「そうですよね」ってバスの中でも言っていたんですよ。で、羽田に着いたらアイツ、黒のジャージでしたからね(会見場笑)。(声のボリュームを上げて)いや、コイツ大物だなと思ってぶったまげました。本人には、その真相をまだ聞いていないんですけど、何があったのかわからないんですけど、やっぱ左ピッチャーって変わったやつ多いなって思ったんですよ。でもスケール感は出てました。頑張ってほしいです。
ま、翔平はちゃんとケガを治して、物理的なスケールも大きいので、アメリカの選手にもサイズで劣らない。あのサイズで、あの機敏な動きができるというのはいないですからね。それだけで。世界一の選手にならないといけないんですよ。
――イチロー選手が感じている野球の魅力、イチロー選手のいない野球の楽しみ方
団体競技なんですけど、個人競技というところですかね。これ野球の面白いところですね。チームが勝てば、それでいいかというと、全然そうではない。個人としても結果を残さないと、生きていくことはできない。本来、チームとして勝っていれば、チームのクオリティは高いはずなので、それでいいんじゃないかという考え方もできると思うんですけど、決してそうではない。その厳しさが面白いというか、魅力であることは間違いないですね。同じ瞬間がないというところ。必ず、どの瞬間も違う。これは飽きがこないですよね。
楽しみ方。2001年に僕がアメリカにきてから、2019年現在の野球は、全く違うものになりました。頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつある。それは現場にいる人はみんな感じていることだと思う。これがどうやって変化していくのか。次の5年、10年、しばらくはこの流れは変わらないと思うんですけど。本来は野球というのは…いや、ダメだ、これを言うと問題になりそうだ。(会見場笑)
頭を使わないとできない競技なんですよ、本来は。でもそうではなくなってきている。どうも気持ち悪くて。野球の発祥はアメリカですから、その野球がそうなってきている。危機感を持っている人ってけっこういると思うんですよね。だから、日本の野球がアメリカの野球に追従する必要なんてまったくなくて、やはり日本の野球は、頭を使う面白い野球であってほしいなと思います。アメリカのこの流れはとまらないので。せめて日本の野球は決して変わってはいけないところ。大切にしなくてはいけないものを、大切にしてほしいなという風に思います。
――子供の頃からの夢であるプロ野球選手になり、これだけ成功して、イチローさんはいま何を得たと思うか?
成功かどうかってよくわからないですよね。どこからが成功で、そうじゃないのかっていうのは、それは僕には判断できないので、だから成功という言葉が嫌いなんですけど。
メジャーリーグに挑戦するというのは、どの世界でも新しいことに挑戦するというのは大変な勇気だと思うんですけど、あえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かない。という判断基準では、後悔を生むだけだなと思います。やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときにどんな結果がでようとも、後悔はないと思うんですよ。じゃあ自分なりの成功を勝ち取ったところで、達成感があるのかと言えば、それも疑問だと思う。僕には。基本的には、やりたいと思ったことに向かっていきたいですよね。
で、何を得たか。うーん、「まぁこんなものかなぁ」という感覚ですかね。それは200本もっと打ちたかったし、できると思ったし、1年目にチームは116勝して、その次の2年間も93勝して、勝つのってそんなに難しいことじゃないなと思っていたんですけど、大変なことです。勝利するのは。この感覚を得たことは大きいかもしれないですね。
――神戸に何か恩返ししたいという思いは?
神戸は特別な街です、僕にとって。恩返しかー。恩返しって何をすることなんですかね。僕は選手を続けることでしか、できないんじゃないかと思っていたこともあって、できるだけ長く現役を続けたいと思っていたこともあるんですね。恩返し…うーん、じゃぁ税金を少しでも払えるように頑張ります。
ピッチャーとして打者・大谷と対戦したかった
――日米で活躍する選手は、甲子園、プロ野球、メジャーという流れがあるが、自身の経験から、もっとこんな制度があればいいな、メジャーに挑戦しやすかった、もしくは日本のプロ野球に残ってもっとやりたかったという、もしもの話なんですけど。こういうことがあればいいなという提言をいただきたい。
制度に関して、僕は詳しくないんですけど。でも日本で基礎を作る。自分が将来、MLBでプレーする、MLBで将来活躍するための礎をつくるという考え方であれば、できるだけ早くというのもわかりますけど、日本の野球で鍛えられることってたくさんあるので、制度だけに目を向けるのはフェアではないかと思いますね。
(特に日本の野球で鍛えられたことは?)
基本的な基礎の動きは、メジャーよりも日本の中学生レベルの方が上手い可能性がある。それは、チームとしての連係もあるじゃないですか、そんなの言わなくたってできますからね、日本では。こちらではなかなかそこは。個人の運動能力は高いですけど、そこにはかなり苦しんで、諦めましたよね。
――大谷と対戦したかった? 大谷選手の今後に期待することあれば
先ほども言いましたが、世界一の選手にならなきゃいけない選手だと考えています。翔平との対戦は残念ですけど、僕はできればピッチャーで、翔平がバッターでやりたかったです。(会見場笑)そこは誤解なきよう。
(どんなメジャーリーガーになっていくと思いますか?)
そこは占い師に聞いてもらわないとわからないかな?(笑)でも、打つことも投げることもやるのであれば、僕は1シーズンごとに、1シーズンピッチャー、次のシーズンは打者として、サイヤングとホームラン王をとったら。そんなこと考えることもできないけど、その想像を翔平はさせるじゃないですか、一瞬。その時点で明らかに違う、人とは明らかに違う選手。その二刀流であれば面白いと思いますね。ピッチャーとして20勝するシーズンがあって、次の年に50本打ってMVPとったらバケモノですよね。でも想像できなくないですからね。
アメリカで外国人になって感じたこと
――野球選手じゃないという自分を想像して
違う野球選手になってます。草野球の話をしましたよね。だからそっちで、それが楽しくてやっていると思うんですけど、そうするときっと草野球を極めたいと思うんでしょうね。真剣に草野球をやるという野球選手になるんじゃないですか、結局は。
――「僕の夢は一流のプロ野球戦になることです」から始まる小学生時代の卒業文集を書いた当時の自分に言いたいこと
お前、契約金1億ももらえないよって(笑) 夢は大きくと言いますけどね、なかなか難しいですよ、ドライチの1億と掲げていましたけど、全然遠く及ばなかったですよ。ある意味では挫折ですよね、それは。
こんな終わり方でいいのかな?キュッとしたいよね、最後は。
――以前のマリナーズ時代、自分は孤独を感じながらプレーしていると言っていたが、ヤンキース、マーリンズを経て、孤独感はずっと感じていたのか、それとも変わってきたか
現在それはまったくないです。今日の段階ではまったくないです。それとは少し違うかもしれないですけど、アメリカにきて、メジャーにきて、外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人です。このことは、(間をおいて)外国人になったことで人のことを慮ったり、人の痛みを想像したり、今までになかった自分が現れたんですよね。
この体験というのは、本を読んだり情報をとることはできても、体験しないと自分の中からは生まれないので、孤独を感じて苦しんだこと、多々ありました。ありましたけど、その体験は、未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと、いまは思います。だから辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、エネルギーのある元気な時に、そのことに立ち向かっていく。それは人として、すごく重要なことなんではないかと感じています。
締まったね、最後! 長い時間ありがとうございました。眠いでしょ、皆さんも。じゃあ、そろそろ帰りますか、ね。