東京対決を彩ってきた助っ人外国人たち
首都“TOKYO”を本拠地とする2チームによる「平成最後の東京対決」が終了。ゴールデンウィーク(GW)も間近に迫り、31年つづいた平成もカウントダウンに入った。
そこでベースボールキングでは、「平成の東京対決」を振り返るべく、平成のヤクルトと巨人を、その傍らで見続けてきた、ヤクルトファンとしても知られているスポーツライターの長谷川晶一さんと、巨人ファンとしても知られている野球ライターの中溝康隆さんに、東京対決を彩ってきた「助っ人外国人」について語ってもらった。
今回は、両氏の印象に残っている助っ人外国人について話をうかがいながら、ユーザーの皆さんにも投票という形で参加いただき、両チームの平成史を彩った「最強助っ人」を決めたいと思う。
野村ヤクルトと長嶋巨人
平成の東京対決、スワローズ対ジャイアンツを語る上で欠かせないのが、当時の野村克也監督と長嶋茂雄監督。要するに、野村ヤクルトと長嶋巨人が、平成前半のセ・リーグをけん引したのは間違いだろう。
まず、1990年(平成2年)に野村監督がヤクルトの指揮官に就任。2年目(91年/平成3年)にチームを11年ぶりのAクラスに押し上げると、3年目(92年/平成4年)には14年ぶりのリーグ制覇に導いた。その翌年(93年/平成5年)、長嶋巨人が誕生。この年に野村ヤクルトは前年に成し遂げられなかった“日本一”になったが、94年(平成6年)には2年目の長嶋巨人が「10.8決戦」の末にリーグ制覇。その後は、95年(平成7年)にヤクルト、96年(平成8年)に巨人、そして97年(平成9年)にヤクルトと、セ・リーグの覇権を奪い合った。
当然、両チームはペナントレースでもバチバチと火花を散らし、数々の名勝負が繰り広げられた。そんな両チームの因縁を語る上で欠かせないのが、「助っ人外国人」の存在。特に94年オフのジャック・ハウエル以降、2002年オフのロベルト・ペタジーニ、07年オフのアレックス・ラミレス、セス・グライシンガー、08年オフにはディッキー・ゴンザレスと、ヤクルトで実績を残した選手が巨人へと移籍。特にラミレス以降の3選手は、2000年代中盤以降の第二次原政権で活躍し、リーグ3連覇などに大きく貢献した。
ヤクルトから巨人という流れ
「巨人を立て直した立役者は、ガッツ(小笠原道大)とラミレスだった」と語る中溝さんも、「ヤクルトですごかったのは、バレンティンなどの助っ人陣。途中から助っ人とりまくりますからね(笑)ペタジーニにしても、ラミレスにしても、グライシンガー、ゴンザレス、名国際スカウトの中島国章氏までヘッドハンティングして。よくヤクルト・ジャイアンツって揶揄されてましたけど、、ヤクルトの助っ人の的確なスカウティングは脅威でした。ファンからすれば、“あいつすげーな”って言ってた選手が全員きたみたいな感じなので、果たしてこれでいいんだろうかみたいなところはありましたけど(笑)」と振り返る。
当時の状況について、長谷川さんは「まさに95年に広沢克己(FA)とハウエルが巨人に行った。こっちの4番と5番が巨人に行って…よくそんなえげつないことするなって思ったし、その後、ペタジーニだったり、ラミレスだったり、グライシンガー、ゴンザレスも。ヤクルトで獲得して活躍した人が、いつのまにかオレンジのユニフォームを着てる。途中でもう慣れたけど、これは慣れちゃいけないなとも思った」と複雑な心境ではあったことを認めた。
その一方で、かつて宮本慎也さん(現ヘッドコーチ)が語っていた「引き抜かれて絶対に負けないぞっていう反骨心を持つけれど、プロ球団として巨人のやってることは正しい。ちゃんと補強をして獲れるものなら獲る。悔しいんだったらヤクルトも取り返せばいい。でもその財力がない。悔しいけどそれがヤクルトの限界なんだ」という言葉を引き合いに出し、「だから腑に落ちない部分はあるけど、頭ではわかるようにしようと思っていた」ということも話してくれた。
そして、ヤクルトの平成史に名を刻んだ助っ人たちを振り返るなかで、最も印象に残っている“最強助っ人”に、少し意外な右腕の名前を挙げた。
「90年代はヤクルトが日本シリーズに4度(92年、93年、95年、97年)進み、そのうち3度、日本一(93年、95年、97年)になっている。その時は、ハウエル(92~94年)、オマリー(95~96年)、ホージー(97~98年)、ブロス(95~97年)といった選手がいた。あとはやっぱりペタジーニ(99~02年)、ラミレス(01~07年)。そして、もちろんバレンティン(11年~)もいる」
「あと、ちょうど優勝争いから離れていた“空白期間”だったけど、林昌勇(08~12年)は好きだったな。林昌勇は高津臣吾がいなくなった後の不動のクローザーだった。ついこの間まで現役でやってましたからね(19年3月、42歳で現役を引退)。一度取材したんですけど、とてもクレバーな方で、それも含めて林昌勇は忘れられない。(ひとりだけ選ぶとしたら?)林昌勇がいいですね。安心して見れたもんね(笑)」
常に超優良大砲がチームに在籍している印象の強いヤクルトだが、平成後期は質の高いリリーフも擁してきた。ユーザーの皆さんにとって、“平成最強助っ人”は誰になるのだろうか?
▼ 平成のヤクルト最強助っ人候補(野手)
J.ハウエル 339試合、打率.292、 86本、231打点
R.ペタジーニ 539試合、打率.321、160本、429打点
A.ラミレス 982試合、打率.301、211本、752打点
W.バレンティン 902試合、打率.272、255本、670打点
▼ 平成のヤクルト最強助っ人候補(投手)
S.グライシンガー 30試合、16勝 8敗、防御率2.84
林 昌勇 238試合、11勝13敗、128セーブ、32HP、防御率2.09
T.バーネット 260試合、11勝19敗、97セーブ、56HP、防御率3.58
L.オンドルセク 102試合、 8勝 3敗、11セーブ、43HP、防御率2.17
やっぱりラミレス!?
一方、印象に残っている巨人の助っ人について、長谷川さんは「スワローズで挙げた選手のうち3人は重なる(笑)」と話し、「やっぱりラミレス(12~13年)かな。インタビューをしたことがあるけど、野球に取り組む姿勢、日本で成功するためのコツみたいなものを、彼は彼なりに戦略的に考えて実行して、ジャイアンツ時代に選手としてのキャリアハイを迎えたと思う」と、外国人枠の適用選手ながら日本球界で通算2000安打を達成した現DeNA指揮官の名前を挙げた。
中溝さんは「在籍期間は短いけど、シェーン・マック(95~96年)とかも好きなんですよ。野村さんが、あの足の速さだったら、ワシなら1番で使うなって言っていた。ジェシー・バーフィールド(93年)もノムさんが獲ろうとしていたっていうマニアックすぎるネタもあるんですけどね(笑)」と三十代後半~四十代のオジサンにとって懐かしすぎる名前を挙げつつ、「でも、ラミレスかな」と一言。やはり、08年のシーズンMVPをかわきりに毎年のように打撃タイトルを獲得し、ジャイアンツでも一時代を築いた超優良助っ人への思いは強いようだった。
90年代の助っ人外国人に関して、中溝さんは「巨人サイドの助っ人は冬の時代というか、あの時代の巨人は、逆指名ドラフトとFAの時代。だからジェフ・マント(96年)とかマリアーノ・ダンカン(98年)とかね(笑)」と述べつつ、「時代が変わったなって思うのは、バレンティンが巨人に来ないこと。やっぱ10年前とは違うんだなという。毎年、オフになるとバレンティンが巨人へって出たじゃないですか。でも、ヤクルトのまま日本人登録になりそう。平成が終わったなと。やっぱ巨人のバレンティンって想像できない」と、助っ人を巡る動きの変化にも時代の流れを重ね、「平成の巨人は助っ人で苦労したことが分かりますね(笑)」と振り返った。
元ヤクルトに限らず、元〇〇の選手が多いようにも感じる平成の巨人助っ人外国人選手たちだが、ユーザーの皆さんにとっての“平成最強助っ人”はどの選手になるのだろうか!? 投票は下記フォームから。
▼ 平成の巨人最強助っ人候補(野手)
D.マルティネス 275試合:打率.291、 36本、147打点
R.ペタジーニ 217試合:打率.305、 63本、165打点
T.ローズ 235試合:打率.267、 72本、169打点
李 承燁 458試合:打率.275、100本、256打点
A.ラミレス 569試合:打率.307、148本、430打点
C.マギー 271試合:打率.300、 39本、161打点
▼ 平成の巨人最強助っ人候補(投手)
B.ガルベス 106試合:46勝43敗、防御率3.31
M.クルーン 159試合: 6勝10敗、93セーブ、15HP、防御率2.56
S.グライシンガー 71試合:31勝22敗、防御率3.45
D.ゴンザレス 72試合:27勝19敗、防御率3.19
S.マシソン 393試合:25勝27敗、53セーブ、191HP、防御率2.97
M.マイコラス 62試合:31勝13敗、防御率2.18