話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。本日は、5月20日に現役引退を発表した巨人・上原浩治投手のエピソードを取り上げる。
「皆さん、お疲れ様です! 今朝の新聞の通り、きょうで引退となります。長い間、応援ありがとうございました。まだ心のなか、頭のなかがごちゃごちゃしてますので、とりあえずはご報告まで…」(20日午前10時24分・上原浩治ツイッターより)
20日早朝に流れて来た、上原の引退報道。本人もツイッターでこれを認め、午後に会見を開く予定です。
上原は、大阪・寝屋川市出身。地元・大阪体育大学を経て、98年のドラフトで巨人を逆指名し入団。99年、プロ1年目から20勝を挙げ、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率の投手4冠を達成。さらに新人王と沢村賞も受賞。
甲子園経験もなく、大学選手権や日米大学野球で活躍するまで、まったく無名の選手だった上原。自ら口にした「雑草魂」という言葉は、この年の流行語大賞にも選ばれました。
その後も、巨人でエースとして活躍。しかし、巨人入団を表明する直前まで悩んだという「メジャー入り」の夢は捨てがたく、FA権を得て、2009年に渡米(この年4月に34歳)。オリオールズを皮切りに、レンジャーズ、レッドソックス、カブスのメジャー4球団を渡り歩きました。レッドソックス時代の2013年には、抑え投手としてフル回転の活躍を見せ、ワールドシリーズでは胴上げ投手になっています。
しかし昨シーズンは、メジャー球団からの色よいオファーがなく、日本球界復帰を決断。10年ぶりに戻ったのは、同い年の高橋由伸前監督が率いる、古巣・巨人でした。
43歳にして、中継ぎとして36試合に登板。14ホールドを挙げ、日米通算で「100勝100セーブ100ホールド」という大記録も達成。「ピッチャー・上原」の場内アナウンスがあるたびに、スタンドが沸き返ったのは記憶に新しいところです。
今シーズンは開幕2軍スタート。1軍登板機会がなく、本人も限界を感じたようで、「自分の代わりに若手にチャンスを与えてほしい」という意向を汲んで、球団も引退を了承したそうです。
ところで、いまのプロフィールを読んで「あれ?」と思われた方はいませんか。上原と高橋由伸前監督は、同い年で、誕生日も同じ(75年4月3日)。ではなぜ、入団年(1年目)が高橋=98年、上原=99年と1年ずれているのでしょうか?
それは上原が大学受験の際、1年間の浪人生活を経験したからです。当時はプロに行くつもりはなく、大阪体育大学で「体育の先生を目指そう」と思い受験。ところがまさかの不合格となり、予備校に通うことになりました。
昔から勉強が大嫌いだったという上原。しかし、ここで持ち前の「負けじ魂」に火がつきました。大学に進んだ同級生たちが、大学野球や他のスポーツで活躍しているのを見て「自分は何やってるんやろ?」と落ち込むこともありましたが「彼らに負けないよう、意地でも来年は大学に受かるんや!」と決意を新たにし、苦手な勉学に励んだのです。
「それまで生きて来た18年分の勉強を、あの1年でやりきった」
当時を思い返し、あの辛い浪人時代があったからこそ、忍耐力が身に付いたという上原。「野球ができなかった19歳のときの苦しさを思えば、打たれても野球ができるいまは辛くもなんともない。あの頃を忘れないように……」という意味も込めて、巨人での背番号を「19」にしたのです。
メジャー4球団でも、ずっと背中に「19」をつけ続けた上原。巨人復帰時は、菅野智之が「19」をつけていたため「11」をつけましたが、今季から菅野が背番号をエースナンバーの「18」に変更。11年ぶりに巨人の「19番・上原」が復活しました。
1軍のマウンドで再びその姿を観る前に、ファンとしては残念な引退声明になってしまいましたが、どん底から這い上がるために「とにかく努力するしかない」と、予備校ではいちばん下のクラスに入り、中学レベルの勉強からやり直したという上原。
「40歳を過ぎて野球が続けられるのも、あの1年があったから」
「雑草魂」の原点である「19番」。1軍からなかなかお呼びがかからなくても、ファームで黙々と練習に励む上原の背中を見て、何かを感じ取った若手たちも多いと聞きます。
エリートコースではないところから叩き上げで、日米両方で頂点に立った上原。第2の野球人生でも、その経験を後進に伝えて行ってくれることでしょう。日米通算21年間のプロ野球人生、ひとまず、お疲れ様でした!
「皆さん、お疲れ様です! 今朝の新聞の通り、きょうで引退となります。長い間、応援ありがとうございました。まだ心のなか、頭のなかがごちゃごちゃしてますので、とりあえずはご報告まで…」(20日午前10時24分・上原浩治ツイッターより)
20日早朝に流れて来た、上原の引退報道。本人もツイッターでこれを認め、午後に会見を開く予定です。
上原は、大阪・寝屋川市出身。地元・大阪体育大学を経て、98年のドラフトで巨人を逆指名し入団。99年、プロ1年目から20勝を挙げ、最多勝・最優秀防御率・最多奪三振・最高勝率の投手4冠を達成。さらに新人王と沢村賞も受賞。
甲子園経験もなく、大学選手権や日米大学野球で活躍するまで、まったく無名の選手だった上原。自ら口にした「雑草魂」という言葉は、この年の流行語大賞にも選ばれました。
その後も、巨人でエースとして活躍。しかし、巨人入団を表明する直前まで悩んだという「メジャー入り」の夢は捨てがたく、FA権を得て、2009年に渡米(この年4月に34歳)。オリオールズを皮切りに、レンジャーズ、レッドソックス、カブスのメジャー4球団を渡り歩きました。レッドソックス時代の2013年には、抑え投手としてフル回転の活躍を見せ、ワールドシリーズでは胴上げ投手になっています。
しかし昨シーズンは、メジャー球団からの色よいオファーがなく、日本球界復帰を決断。10年ぶりに戻ったのは、同い年の高橋由伸前監督が率いる、古巣・巨人でした。
43歳にして、中継ぎとして36試合に登板。14ホールドを挙げ、日米通算で「100勝100セーブ100ホールド」という大記録も達成。「ピッチャー・上原」の場内アナウンスがあるたびに、スタンドが沸き返ったのは記憶に新しいところです。
今シーズンは開幕2軍スタート。1軍登板機会がなく、本人も限界を感じたようで、「自分の代わりに若手にチャンスを与えてほしい」という意向を汲んで、球団も引退を了承したそうです。
ところで、いまのプロフィールを読んで「あれ?」と思われた方はいませんか。上原と高橋由伸前監督は、同い年で、誕生日も同じ(75年4月3日)。ではなぜ、入団年(1年目)が高橋=98年、上原=99年と1年ずれているのでしょうか?
それは上原が大学受験の際、1年間の浪人生活を経験したからです。当時はプロに行くつもりはなく、大阪体育大学で「体育の先生を目指そう」と思い受験。ところがまさかの不合格となり、予備校に通うことになりました。
昔から勉強が大嫌いだったという上原。しかし、ここで持ち前の「負けじ魂」に火がつきました。大学に進んだ同級生たちが、大学野球や他のスポーツで活躍しているのを見て「自分は何やってるんやろ?」と落ち込むこともありましたが「彼らに負けないよう、意地でも来年は大学に受かるんや!」と決意を新たにし、苦手な勉学に励んだのです。
「それまで生きて来た18年分の勉強を、あの1年でやりきった」
当時を思い返し、あの辛い浪人時代があったからこそ、忍耐力が身に付いたという上原。「野球ができなかった19歳のときの苦しさを思えば、打たれても野球ができるいまは辛くもなんともない。あの頃を忘れないように……」という意味も込めて、巨人での背番号を「19」にしたのです。
メジャー4球団でも、ずっと背中に「19」をつけ続けた上原。巨人復帰時は、菅野智之が「19」をつけていたため「11」をつけましたが、今季から菅野が背番号をエースナンバーの「18」に変更。11年ぶりに巨人の「19番・上原」が復活しました。
1軍のマウンドで再びその姿を観る前に、ファンとしては残念な引退声明になってしまいましたが、どん底から這い上がるために「とにかく努力するしかない」と、予備校ではいちばん下のクラスに入り、中学レベルの勉強からやり直したという上原。
「40歳を過ぎて野球が続けられるのも、あの1年があったから」
「雑草魂」の原点である「19番」。1軍からなかなかお呼びがかからなくても、ファームで黙々と練習に励む上原の背中を見て、何かを感じ取った若手たちも多いと聞きます。
エリートコースではないところから叩き上げで、日米両方で頂点に立った上原。第2の野球人生でも、その経験を後進に伝えて行ってくれることでしょう。日米通算21年間のプロ野球人生、ひとまず、お疲れ様でした!