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追悼、金田正一さん。深澤弘とかねやんの内緒の話

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豪快なイメージの一方、すさまじいプロ意識の高さでも知られた400勝投手・金田正一 (C)KYODO NEWS

追悼、金田正一さん


 今週は、亡くなった大投手・金田正一さんについて。

 10月6日、残念ながら、大投手・金田正一さんが亡くなりました。巨人は7日の練習前に東京ドームで黙とう、ロッテも練習前に黙とうを捧げました。

 金田さんの愛弟子の村田兆治さんは、「厳しい反面、温かみのある、非常に尊敬できる恩人。私も、そういう人になっていきたい」と涙ながらにコメント。杉下茂さんは「ノーヒットノーランをした時に、対戦相手は国鉄の金田だった。1957年、今度は金田が中日戦で完全試合をやったとき、中日の投手はオレだった。何かとあいつとは縁があった。とても寂しい。みんな居なくなってしまうな」と話したとか。杉下さんは93歳です。

 すべての野球関係者に惜しまれて亡くなった金田さん。記録だのタイトルだのと言う話をしていると、いくら時間があっても足りないくらい、沢山ありますので、今日は記録の事ではなくて、『かねやん』にまつわるエピソードをいくつかお話したいと思います。


金田正一のサイン


 国鉄時代のかねやんは、もう威張りまくっていました。何しろ弱小チームの中で、6月中に自分だけ20勝してしまう飛びぬけた実力を持っていたんです。かねやんが居た時の国鉄は、ペナントレースでは、全部で833勝していますが、なんとそのうち353勝が、金田投手によるもの。

 どうでしょうね、本当に(チームの勝ち星の)40パーセントくらいを、かねやんだけでとったということで、「監督、きょうは俺が好調だからいくぞ」というと、当時の宇野監督は、「はい、先発・金田正一」という風に決めるくらい。もう一人天下というのが、数字からでもわかります。

 それから、投げるボールは、速球とカーブだけ。ともに一級品です。でも、球種がわからないと捕手も捕れない。速球のサインでカーブがくると捕れないし、カーブのサインで速球がくると、さらに捕れないということで、捕手に何を投げるか教えるために、バッテリー間でサインを作っていました。

 サインといっても、投げる球はその2種類だけ。だんだんと相手のベンチにも読まれるし、打者も読むようになる。そこで、投げる球は2種類しかないけれど、サインはわからない方がいいという事で、晩年はかねやんがサインを出していたそうです。

「なあ深澤さん、現役時代の俺のサインを教えてやろうか。森(祇晶)捕手が、だんだんサインを盗まれるようになっちゃったから、巨人時代の後半は、俺がサインを出していたんだ。森のサインを見る時に、口をキリッと、唇を締めてみた時は速球。ボーっと、口を半分くらい空けてみた時はカーブ。この2種類でやって、これがなかなか打者に読まれなくて面白かったよ」

 これはかねやんが内緒の話だよといって、教えてくれた話です。


大胆不敵な金田正一


 打撃の神様・川上哲治さんでさえ、241打数56安打、打率.233、ホームランなし、三振が43個、ほとんど打たれていなかった。しかし阪神の吉田義男さんにはよく打たれました。金田さんが180cmを越えている、吉田さんは165cm。20cm以上の身長差があるのですが、とにかく吉田さんには良く打たれる。

 吉田さんとは、377回対戦して328打数95安打、打率.290。なんと川上さんが1本も打てなかったホームランを、吉田さんは8本。三振は、わずか15個。1960年から1963年は、なんと4年連続三振ゼロ、78打席、吉田さんから三振をとれなかったそうです。

 吉田さんが、カーンと左中間に打って、セカンドまで行く二塁打。胸を張っている吉田さんに「このチビ、この野郎!」って、放送席まで聞こえるくらいの大声でね、これが非常にユーモラスで、スタンドは大喜びでした。

 それから監督時代ですが、ロッテがシーズンの半分を、仙台にフランチャイズを置いて戦った事があります。仙台は、東京と違って、街を出ると、周りにゴルフ場が一杯あります。 ゴルフの大好きなかねやんは、出来たらペナントレース中もゴルフをしたいという事で、試合のある日も、グランドに来る前に、ゴルフ場に行って、1ラウンドやってくるんです。

 長引くとなかなか帰ってこなくて、なんと試合開始の5分前、メンバー交換寸前と言う時に来た時もあって、チームの関係者はみんな、ハラハラしていたそうです。そしてその年(1974年)に、ロッテは69勝50敗でパリーグ優勝を飾り、日本シリーズを仙台でやるのか、他でやるかという話になりました。

 当時の仙台は、今の楽天の野球場のように、立派になっていませんから、非常に汚い球場でしたし、観客動員も1万5000人くらいだったので、仙台での日本シリーズは無理だという事で、巨人のホームグラウンドだった後楽園球場で開催。仙台のファンは怒ってしまい、「ロッテは2度と来るな!!」という事で、仙台は怒りまくっていました。しかしチームはというと、日本シリーズで中日を破り日本一になりました。


金田正一と大沢親分


 それから、ロッテ・金田監督、日本ハム・大沢(啓二)監督という名物監督が対戦した際に、川崎球場で金田監督が勝負所で“代打の切り札”得津(高宏)選手を出します。PL学園から来た左打者で、大沢監督は「右対左では分が悪い」ということで、投手を左に替えると、「左の得津選手では意味がない」ということで、代打の代打で右打者を送り出しました。

 得津選手は、せっかくの出番が消えてしまいました。ほんと、得津選手は滅多に出ない代打要員で、こういうチャンスを狙っていたんですが、結局、得津選手は何もしないで一塁側のベンチに帰ります。ベンチに帰ると、ヘルメットを叩きつけて、バットも投げて大騒ぎ。最後は、三塁側の日本ハムのベンチに向かって「大沢のバカヤロー」と大声で叫んだんです。

 お客さんの入っていない川崎球場ですから、球場中に響きわたる。そうなると当然、大沢監督は怒って出てきます。すると金田監督は怒る理由もないんですけど出てきます。さあ乱闘になったか?というと、結局、乱闘にはなりませんでした(笑)

 それでも、大沢監督と金田監督は、一緒に居るだけでも険悪なムードなので、この時は険悪というか、面白かったというか、今だから面白いといえるんですけどね(苦笑) 金田さんが居る所では、色々な出来事が起こるということで、みんな何かしら期待をして球場に行っていた感じでした。


金田正一との思いでと…


 それから巨人に移籍した1965年。同年に高田繁さんも巨人に入り、この年の巨人は、キャンプをはじめて海外で行いました。台湾の台中という所に行ったのですが、当時は、外貨の持ち出しというのが非常に厳しくて、お小遣いとして、選手は300ドルまで。報道関係は、何かとお金を使うだろうという事で、900ドルが上限でした。まあ今と違って、持っていくドルは限られていました。

 かねやんは300ドルだけ、私は900ドル持っている。そんなことをかねやんは嗅ぎつけたんですね。かねやんは、台中市内にある「フジ」という日本料理屋で、毎晩、食事をしていたのですが、その料理店の前が私のホテルだったんです。都合が良いのか悪いのか、かねやんは、そのホテルに私が泊っている事に気が付いたんですね。毎晩9時過ぎになると、「おぅ、金田だ。フジにいるけど来ないか」って呼び出してくるわけです。行ってみると、何の事はない、食事はとっくに終わって、顔を真っ赤にしたかねやんがいるわけです。

 しょうがないから、かねやんの食事代を払います。ですから、今だから話しますけど、持って行った900ドルは、全部《かねやんとの打合せ》という事になってしまいました。まぁ、マスコミと選手というのは、そうやって関係を深めていくわけで、これもいい思い出ですね。

 そのかねやんは、1969年後楽園球場の中日戦で、400勝を飾ります。胴上げされた後、川上監督に「金田おめでとう。400勝できたし、もういいだろう。もう引退やな」と、なんとなく引退勧告を受けるわけです。

 もっと現役を続けたかった金田正一投手は当時、川上さんを恨みました。そして、川上さんの言葉にうなづきながら、仕方なく、仕方なく、引退を決意して、巨人の背番号34は、永久欠番になったわけです。

 これから日本プロ野球界に、第二の大谷翔平、第二の江川卓など、凄く良い投手が出てくると思いますが、この偉大な金田正一の記録を抜くことは、絶対無理だと思います。金田正一さん、本当に心からご冥福を祈るばかりです。
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