ニュース 2020.04.20. 11:30

関根潤三さん秘話の数々… 長嶋さんとのつながりの裏には!?【ショウアップナイターヒストリー】

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ヤクルト監督時代の関根潤三氏

実は93歳ではなかった!?


 ご機嫌いかがですか、深澤弘(84)です。世の中、大変なことになっています。一刻も早く、事態が落ち着くように願っております。特に、私たち超高齢者になりますと、皆さん以上に危険があるということで、万全を尽くしているつもりですが、何とか早く、このピンチが去って欲しいですね。こんな状況ですので、今日は電話収録ということでご容赦願いたいと思います。

 近頃の話では、関根潤三さんが亡くなりました。残念ながら4月10日の朝、大田区の老人ホームで亡くなりました。最近は少し体力も落ちていたようで、最後は食べるものも飲み込めないくらいになったそうです。しかし、いわゆる老衰で何の苦しみもなかったというのは関根さんらいし、大往生だと思います。

 今年で93歳。本当は大正15年に生まれたので、関根さんは93歳ではないんですが、大正15年の後の昭和というのがわずか1週間ぐらいしかなかった。昭和元年が1週間くらいしなかったので、その1週間の間に、関根さんのご両親が関根さんを登録する事を忘れてしまいました。いかにも親子っていう感じですけど、したがって、昭和2年生まれになったんです。あっという間の2年、3年だったということになりますね。

 関根さんが生まれたのは、東京の原宿です。中学は日大三中。日大三中といえば、今は町田の方にありますけれど、当時は赤坂の真ん中にありました。いい所にあった学校なんです。関根さんは、原宿から赤坂まで歩いて通っていたそうです。今でいう国道246号線。当時は、あんなに広くはなかったと思いますが、原宿から赤坂まで歩いて通っていたそうです。


沢村栄治との出会い


 日大三中では、お兄さんの影響を受けて野球を始めました。赤坂のど真ん中にあった日大三中ですから、グラウンドはありません。だから勉強が終わると、地下鉄銀座線に乗って、渋谷で乗り換えて東横線の多摩川園前で降りて、グランドまで歩いて行くという毎日だったそうです。

 当時は、日大三中が借りていた河川敷グランドの近くに、巨人軍の合宿所がありまして、時々、その日練習がなかった選手や、練習を終えた選手が、ふら~っと来て、日大三中の練習を見ていたそうです。

 あるとき、練習が終わって、関根さんが帰ろうとすると、一人の中肉中背の方が寄って来て『おい、君。いいもの持ってるよ。もし野球やるんだったら一生懸命やらなければダメだよ』と言って、関根さんの肩を叩いて去っていったそうです。実は、それが、後に有名になった沢村栄治投手でした。

 どうでしょう、沢村栄治さんと、そんな会話を交わしたのは、現在では関根さんぐらいしかいないんじゃないでしょうか。沢村さんに激励されて、関根さんは非常に元気づいたそうです。

 日大三中時代の関根さんは、最初は左利きながら、二塁手をやっていたそうです。変わっていますね。左利きの二塁手をやっていましたが、甲子園には行くことは出来ませんでした。関根さんが4年生の時に、甲子園に出場したのは、永遠のライバルだった杉下茂さんのいた帝京商業でした。

 日大三中を卒業した後、関根さんが恩師として生涯にわたって尊敬していた、藤田省三さんという方が監督をやっていた法政大学に入学します。そこで生涯の親友、根本陸夫さんに会い、後に二人揃って、1950年に近鉄パールスという新しい球団に入団するわけです。


元祖・二刀流として


 近鉄での関根さんは、投手と外野手、いわゆる二刀流の選手でした。当時は「二刀流、二刀流」なんて、あまり騒がれなかったのですが、通算16年間で1137安打59本塁打、打率.279。投手としては、通算8年間で65勝94敗。防御率3.42という成績を残しました。

 とにかく投打共に、当時はあまり強い球団ではなかった近鉄パールスの主力選手としてプレーしました。1965年に巨人へ移籍し、1年だけ所属しましたが、全部代打で、48安打、ホームラン3本という成績で、その後、引退しました。

 巨人を辞めた後、川上監督に『もう1年やらないか』と誘われたのですが、関根さんの人生設計で『もういいだろう』という事で、それを硬く断りまして、アメリカに行こうとしたんです。1年間、アメリカで勉強しようと。色々な手続きをしていたんですが、そこへニッポン放送が行きまして、『解説者にならないか』という事で、関根さんを強く誘いました。

 『ダメだ、ダメだ』と言われても、関根さんの所に行きまして、ついに関根さんが降参して、ニッポン放送の解説になり、以来ずっとニッポン放送はお世話になったことになります。

 関根さんは、タバコは吸ったのですが、途中で止めています。酒は全く駄目で、ゴルフも途中で止めてしまいました。歌もあんまり歌わないので、カラオケにも縁がない人だったのですが、唯一、関根さんが持っていたレパートリーは、古賀政男さんの「影を慕いて」でした。これは、何回か歌っていたのを聴いたことがあります。とにかく、趣味、道楽のない方ですが、ただ一日をぼーっと過ごすのが上手い方で、毎日毎日、のんびり1日が流れて行ったという感じです。


台風の夜、広島での逸話


 関根さんにまつわるエピソードをひとつ。

 1970年、1年だけ広島のヘッドコーチをやりました。根本陸男さんからのお願いという事で、関根さんはヘッドコーチを務めるのですが、ある時、広島と巨人の試合が、台風接近のため中止になります。

 台風が鹿児島の方から上陸して、ナイターの時刻あたりに広島を通過する、という事で中止になりました。私は、その試合を中継するために広島入りしていたのですが、中止になったので、少しでも出張旅費を浮かそうと思い、寝台列車の切符を取りました。

 しかし、その寝台列車が、鹿児島の方から来なくなってしまい、東京に帰る方法がなくなってしまいました。寝台列車の切符を買った時に、泊まる予定のホテルもチェックアウトしてしまったので、泊まるところがなくなってしまったんです。

 そんな話を関根さんにしたら『オレの合宿の部屋が広いから、二人寝たって、まだお釣りがあるから、オレの部屋に泊めてやるよ』という事で、広島の三篠というところにある広島の合宿所の関根さんの部屋に泊めてもらいました。本当、柔道場みたいに広い部屋でしたけれど、ただその夜はすごい雨・風で、その合宿所は、木造の古い建物だったので、風が吹くと、ガタガタ揺れるんです。

 もの凄いですね、なんて関根さんと話をしていたら、午後8時頃になって関根さんが『ちょっと待ってね。下に行って、みんなのバットスイング見て来るから』と言って降りて行ったんです。みんなと言っても、山本浩二さん、三村勲さん、水谷実雄さん、こういった後に、広島カープの中心になるプレイヤーが真夜中、パンツ一丁で合宿所の玄関でバットを振っていたんです。


深夜2時の素振り


 私もそーっと、暗い所から見ていたんですが、やがて終わりまして、関根さんが部屋に戻って来るんですが、『ひとり居なかったなぁ』と呟いたんです。誰かひとり足りなかった。もう誰だかわかっているわけです。

 で、午前2時頃、私と関根さんは話し込んでしまって、なかなか眠れない。風の音はまだ酷い。そこにタクシーが止まる音が聞こえたんです。関根さんは『誰か帰ってきたな。ちょっと見て来るから先に寝ていて』といって、降りて行ったんです。

 私は、その選手の方が気になるので、関根さんの後をそーっとついて行ったんです。そうすると玄関に、いかにも選手というような大きな人影があり、その人影は、強い風で玄関がバタバタする音に紛れて、そーっと入って来るんですけれど、酔っ払って足元はフラフラの状態。で、関根さんが静かに、そこに近づいて行って、『おい。さち、やろう』と一言言ったんです、衣笠選手だったんです。

 「お前、何やってたんだ」ではなく、「おい。さち、やろう」って、何やるかは分かっているわけです、フォーム作り、バットスイングです。衣笠さんからすれば、これはびっくりして、まさか見つかるとは思いませんから、しかも一言も怒られないんですから。

 で、衣笠さんが、パンツ一丁でバットを1本持って出てくるわけです。それから約1時間、二人は黙ってバットを振っていました。終わった後に、「関根さん、衣笠どうでした?」って聞いたら、「最初の方は、酔っ払ってフラフラで、バットを離したらオレの方に飛んで来そうで怖かったけど、最後の方は、疲れて力が抜けたんだね。いいスイングしていたよ」と喜んでいました。本当に、「衣笠!何してたんだ!!」の一言もないんです。

 で一夜が明け、広島市民球場のスコアボードが台風によって壊れて試合は中止になったんですが、翌々日に行われた試合で、衣笠選手が見事に本塁打を打つんですね。こういうことで、関根さんというのは、広島時代、非常に信頼されたコーチでした。


長嶋さんとの関係のはじまり


 それからもう一つ。長嶋さんと関根さんの関係についてお話をしたいと思います。長嶋さんと関根さんというのは、最初は普通の関係だったんです。で、長嶋さんが36歳になった時、私に『どうも年齢で衰えてきたのか、今まで自分の素質だけで打ってきたけれど、そうもいかなくなった。少しバッティングの技術を研究したいから、手伝ってくれ』と言いまして、36歳以降、毎晩毎晩、試合後にやる長嶋さんの練習に付き合っていたんです。

 良い時は良いんですけど、悪いと怒り出す。どこが悪いって言っても、私は分からない事があるし、私なんかを相手にしてやっても、長嶋さんの悩みは絶対に解決できないと思ったので、私は関根さんに頼み込んで「1回でいいから、長嶋さんのバッティングをちょっと見て欲しい」ということで、嫌がる関根さんを、無理やり田園調布の長嶋さんの家へ連れて行ったんです。

 いわゆるバッティングの基本を、この時、長嶋さんは教わる訳です。ちなみに、後に長嶋さんが松井秀喜を教える時も、その時に関根さんに教わった事が役に立っているんだと思います。で、関根さんと長嶋さんが、そういう深い関係になってきたので、長嶋さんが初めて監督をする時、関根さんに「ヘッドコーチをやってくれ!」と頼んだ訳です。

 でも関根さんは『オレはそんなつもりであの人と付き合っていたのではない。断ってくれ』というので、私は2回くらい、長嶋さんの所に断りに行ったんです。そうすると長嶋さんは「あの人が居なければ、俺の野球が出来ない」というので、何とか関根さんを説得して、ようやくヘッドコーチになってもらったんですが、1年目はご存知の通り、最下位になりまして、2年目、関根さんは二軍の監督になります。

 その時に、長嶋さんが関根さんにお願いしたのは「二軍の他の奴はいいんです。中畑と篠塚、この二人だけ作ってください」というので、関根さんもその通り、中畑・篠塚を一生懸命指導し、後に巨人の主力選手となる訳です。

 関根さんと長嶋さんは、こういう関係でずっとお付き合いが続いてきましたけれど、どちらもそういうことを話すわけでもなかった。ですから世の中では「関根さんと長嶋さんは、どこに接点があって、どうしてああいう風に親しいのだろう?」って、みんな不思議がっていましたけれど、関根さんの人柄というのは、長嶋さんにとっても、欠くことは出来ないものだったんですね。

 あとは、ご存じの通り、凄い解説者でした。江本孟紀さんも凄いんですが、関根さんというのは、江本さんとは違った感じのある、渋い解説で、とにかく試合の先、先を読んでいるんですね。

 『巨人のブルペン、もっと急がなくてはダメだ』とか言うと、その後、投手が打たれたり、関根さんの言葉通りに試合が進む、展開していくんです。だから皆さんから、「関根さんの解説、よく当たるね」という話をされるのですが、「当たる」のではなくて、「その辺りまで先読みが出来た」素晴らしい解説だと思うんです。

 私は、こういう関根さんに色々教わって、アナウンサーとして一生過ごす事が出来たのも、関根さんのおかげだと思っています。関根さんが93歳。天に召されて不思議ではないかもしれませんが、本当に残念でなりません。関根さんのご冥福を心からお祈りいたします。


(ニッポン放送ショウアップナイター)
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