話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、2018年4月に亡くなった往年の名プレーヤー、広島カープ・衣笠祥雄選手にまつわるエピソードを取り上げる。
野村克也さん、関根潤三さん……今年(2020年)は球史に名を刻んだ偉人の訃報が相次いでいますが、ちょうど2年前のいまごろ、訃報が飛び込んで来たのが「鉄人」こと、衣笠祥雄さんでした。2018年4月23日没、享年71。現役時代から精悍なイメージがあり、誰からも慕われていたので、「キヌさん、早すぎるよ……」と、急逝を惜しむ声が球界以外からも上がりました。
1987年6月、衣笠さんはルー・ゲーリッグのメジャー記録「2130試合連続出場」を抜き、世界新記録(当時)を樹立。後にカル・リプケン・Jr.に抜かれ、現在は日本記録になりましたが、衣笠さんは偉業を讃えられ、この年、国民栄誉賞を受賞しています。
70年のシーズン途中から始まった、衣笠さんの連続試合出場記録。71年から引退した87年まで17年連続でシーズン全試合に出場。記録継続中、1度も戦列を離れることなく(故障しても、試合に出ながら完治)、不振で試合から外されることもなかったのは驚異的で、この記録を抜く選手は当分現れないでしょう。
衣笠さんの偉大な足跡については、これまで何度も語られていますが、私が不満に思うのは、いつもこの「連続試合出場」のことばかり取り上げられることです。衣笠さんの「鉄人」ぶりを語るのにふさわしい記録だから、というのはわかりますが、仮にその記録がなくても衣笠さんは十分、球史に残るスラッガーでした。
カープひと筋、23年間の通算成績は、2677試合に出場し、2543安打・504本塁打・1448打点。どれも超一流の数字なのですが、その打撃について語られることが少ないのは、おそらく、打撃タイトル獲得が打点王1回(84年、102打点)だけ。3割を打ったことが23年間で1度しかない(84年、打率.329)からでしょう。この機会に、衣笠さんがどれだけ「打者としても」凄かったのか、そのバッティングの才能を引き出したのは誰なのかについて、改めて触れてみたいと思います。
衣笠さんの記録で、特に注目してほしいのが通算本塁打数・504本です。過去、ホームランを500本以上打った選手は、王貞治(868本)・野村克也(657本)・門田博光(567本)・山本浩二(536本)・清原和博(525本)・落合博満(510本)・張本勲(504本)と衣笠さんの8人だけ。この顔ぶれを見れば、衣笠さんが長距離砲としても超一流だったことがおわかりいただけるでしょう。
衣笠さんは現役時代、常に「ホームランを打つこと」を目指し、フルスイングをモットーにしていました。従って三振数も、歴代10位の1587個を記録。三振数の歴代ランキングは上位に名だたるホームラン打者が並んでおり、これはむしろ“勲章”なのです。豪快なフルスイングで「ホームランか、三振か」……それが衣笠さんの美学でした。
「プロの世界で生きて行くためには、バットで自分を表現するしかない」……そう決意した衣笠選手は、連日バットを振って振って振り抜きました。その手伝いをしたのが誰あろう、先日鬼籍に入られた、元ヤクルト・大洋監督の関根潤三さんです。
「え? 関根さんって、カープにもいたの?」と驚く方も多いと思いますが、実は関根さんは1970年の1シーズンだけ、広島で打撃コーチを務めたことがあるのです。当時、広島の監督は根本陸夫氏。後に西武・ダイエーを指揮し、退任後はフロントでチーム編成を担当。「球界の寝業師」と呼ばれる辣腕を振るって、両チームを常勝軍団へと導いた人物です。関根さんと根本監督は日大三中~法政大の同期生で、同じ釜の飯を食った盟友でした。
根本監督の「うちの若手たちを一人前にしてやってくれ」という依頼を聞き入れ、単身、広島へ乗り込んだ関根さん。選手寮で寝食を共にし、山本浩二、水谷実雄ら、後にチームを背負う若手に熱心な指導を行いました。そのなかに、当時プロ6年目の衣笠さんもいたのです。「衣笠を、リーグを代表する打者にしてほしい」が根本監督からの依頼でした。
関根さんの指導スタイルは、その選手の欠点を無理やり矯正するのではなく、長所を引き出すことでした。素質は高く評価されながら、もう1つ伸び悩んでいた衣笠さんは、関根コーチとのマンツーマンの特訓で開眼します。「自分の長所は、思い切りのいいスイングにある。ならば、ホームランを打つことに徹しよう」と気付いたのは、関根さんのお陰でもありました。そしてこの70年から、連続試合出場がスタートしたのです。
また、関根さんにはプロとしての心構えも教わりました。入団後、すぐに遊びを覚え、門限破りの常習犯だった衣笠さん。ある日、夜間練習をサボって街へ繰り出し、深夜にこっそり選手寮へ帰って来ると、何と玄関に関根さんがバットを持って待ち構えていたのです。怒らずに「サッチ、待ってたよ。さあ、始めようか……」と衣笠さんへバットを手渡し、1時間以上も練習に付き合った関根さん。この話は有名ですが、何度聞いてもいい話です。
関根さんの教えを胸に、常にフルスイングを心掛けていた衣笠さん。もう1つ、大好きなエピソードがあります。連続試合出場記録がスタートして10年目の1979年8月、衣笠さんは巨人・西本聖から背中にデッドボールを食らってしまったのです。診断の結果は、左肩肩甲骨(けんこうこつ)の骨折でした。
「さすがに、今度ばかりは無理か……」と諦めかけた衣笠さんでしたが、朝起きたら奇跡的に腕が上がり(何たる回復力!)、翌日の試合に代打で出場。巨人のエース・江川卓と対決します。連続出場を続けることを考えるなら、バットを振らず、見逃し三振という手もありましたが、それは自分の美学に反しますし、自分を観に来ているファンにも申し訳ない。衣笠さんは激痛を堪え、江川の剛速球をフルスイングで打ちに行きました。
結果は3球三振でしたが、3球とも全力でバットを振り抜いた衣笠さん。試合後、こうコメントしました。「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は、僕にぶつけた西本君のためにスイングしました」……謝罪の電話をかけた西本に「気にするな」と言い、その将来のことまで案じて打席に立っていた衣笠さん。この広い心も、恩師・関根さんの影響のような気がします。
野村克也さん、関根潤三さん……今年(2020年)は球史に名を刻んだ偉人の訃報が相次いでいますが、ちょうど2年前のいまごろ、訃報が飛び込んで来たのが「鉄人」こと、衣笠祥雄さんでした。2018年4月23日没、享年71。現役時代から精悍なイメージがあり、誰からも慕われていたので、「キヌさん、早すぎるよ……」と、急逝を惜しむ声が球界以外からも上がりました。
1987年6月、衣笠さんはルー・ゲーリッグのメジャー記録「2130試合連続出場」を抜き、世界新記録(当時)を樹立。後にカル・リプケン・Jr.に抜かれ、現在は日本記録になりましたが、衣笠さんは偉業を讃えられ、この年、国民栄誉賞を受賞しています。
70年のシーズン途中から始まった、衣笠さんの連続試合出場記録。71年から引退した87年まで17年連続でシーズン全試合に出場。記録継続中、1度も戦列を離れることなく(故障しても、試合に出ながら完治)、不振で試合から外されることもなかったのは驚異的で、この記録を抜く選手は当分現れないでしょう。
衣笠さんの偉大な足跡については、これまで何度も語られていますが、私が不満に思うのは、いつもこの「連続試合出場」のことばかり取り上げられることです。衣笠さんの「鉄人」ぶりを語るのにふさわしい記録だから、というのはわかりますが、仮にその記録がなくても衣笠さんは十分、球史に残るスラッガーでした。
カープひと筋、23年間の通算成績は、2677試合に出場し、2543安打・504本塁打・1448打点。どれも超一流の数字なのですが、その打撃について語られることが少ないのは、おそらく、打撃タイトル獲得が打点王1回(84年、102打点)だけ。3割を打ったことが23年間で1度しかない(84年、打率.329)からでしょう。この機会に、衣笠さんがどれだけ「打者としても」凄かったのか、そのバッティングの才能を引き出したのは誰なのかについて、改めて触れてみたいと思います。
衣笠さんの記録で、特に注目してほしいのが通算本塁打数・504本です。過去、ホームランを500本以上打った選手は、王貞治(868本)・野村克也(657本)・門田博光(567本)・山本浩二(536本)・清原和博(525本)・落合博満(510本)・張本勲(504本)と衣笠さんの8人だけ。この顔ぶれを見れば、衣笠さんが長距離砲としても超一流だったことがおわかりいただけるでしょう。
衣笠さんは現役時代、常に「ホームランを打つこと」を目指し、フルスイングをモットーにしていました。従って三振数も、歴代10位の1587個を記録。三振数の歴代ランキングは上位に名だたるホームラン打者が並んでおり、これはむしろ“勲章”なのです。豪快なフルスイングで「ホームランか、三振か」……それが衣笠さんの美学でした。
「プロの世界で生きて行くためには、バットで自分を表現するしかない」……そう決意した衣笠選手は、連日バットを振って振って振り抜きました。その手伝いをしたのが誰あろう、先日鬼籍に入られた、元ヤクルト・大洋監督の関根潤三さんです。
「え? 関根さんって、カープにもいたの?」と驚く方も多いと思いますが、実は関根さんは1970年の1シーズンだけ、広島で打撃コーチを務めたことがあるのです。当時、広島の監督は根本陸夫氏。後に西武・ダイエーを指揮し、退任後はフロントでチーム編成を担当。「球界の寝業師」と呼ばれる辣腕を振るって、両チームを常勝軍団へと導いた人物です。関根さんと根本監督は日大三中~法政大の同期生で、同じ釜の飯を食った盟友でした。
根本監督の「うちの若手たちを一人前にしてやってくれ」という依頼を聞き入れ、単身、広島へ乗り込んだ関根さん。選手寮で寝食を共にし、山本浩二、水谷実雄ら、後にチームを背負う若手に熱心な指導を行いました。そのなかに、当時プロ6年目の衣笠さんもいたのです。「衣笠を、リーグを代表する打者にしてほしい」が根本監督からの依頼でした。
関根さんの指導スタイルは、その選手の欠点を無理やり矯正するのではなく、長所を引き出すことでした。素質は高く評価されながら、もう1つ伸び悩んでいた衣笠さんは、関根コーチとのマンツーマンの特訓で開眼します。「自分の長所は、思い切りのいいスイングにある。ならば、ホームランを打つことに徹しよう」と気付いたのは、関根さんのお陰でもありました。そしてこの70年から、連続試合出場がスタートしたのです。
また、関根さんにはプロとしての心構えも教わりました。入団後、すぐに遊びを覚え、門限破りの常習犯だった衣笠さん。ある日、夜間練習をサボって街へ繰り出し、深夜にこっそり選手寮へ帰って来ると、何と玄関に関根さんがバットを持って待ち構えていたのです。怒らずに「サッチ、待ってたよ。さあ、始めようか……」と衣笠さんへバットを手渡し、1時間以上も練習に付き合った関根さん。この話は有名ですが、何度聞いてもいい話です。
関根さんの教えを胸に、常にフルスイングを心掛けていた衣笠さん。もう1つ、大好きなエピソードがあります。連続試合出場記録がスタートして10年目の1979年8月、衣笠さんは巨人・西本聖から背中にデッドボールを食らってしまったのです。診断の結果は、左肩肩甲骨(けんこうこつ)の骨折でした。
「さすがに、今度ばかりは無理か……」と諦めかけた衣笠さんでしたが、朝起きたら奇跡的に腕が上がり(何たる回復力!)、翌日の試合に代打で出場。巨人のエース・江川卓と対決します。連続出場を続けることを考えるなら、バットを振らず、見逃し三振という手もありましたが、それは自分の美学に反しますし、自分を観に来ているファンにも申し訳ない。衣笠さんは激痛を堪え、江川の剛速球をフルスイングで打ちに行きました。
結果は3球三振でしたが、3球とも全力でバットを振り抜いた衣笠さん。試合後、こうコメントしました。「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は、僕にぶつけた西本君のためにスイングしました」……謝罪の電話をかけた西本に「気にするな」と言い、その将来のことまで案じて打席に立っていた衣笠さん。この広い心も、恩師・関根さんの影響のような気がします。