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虎を支え、日本を愛した助っ人エース キーオ & バッキー

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阪神のキーオ投手(背番号4番)=1988年7月20日 東京ドーム 写真提供:産経新聞社
話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、阪神タイガースの歴史を彩った2人の外国人エース、マット・キーオ投手と、ジーン・バッキー投手にまつわるエピソードを取り上げる。

前回は、1997年、わずか7試合だけ出場して嵐のように去って行った阪神の外国人、マイク・グリーンウェルのエピソードをご紹介しましたが、対照的に、タイガースで長年にわたり活躍し、ファンに愛された外国人選手もいます。

その代表が、昨シーズン(2019年)限りで惜しまれつつ引退したランディ・メッセンジャーです。2010年から10年間、阪神に在籍。その間、2ケタ勝利を7度もマークし、通算98勝。6度も開幕投手を務めました。2010年代の阪神のエースはメッセンジャーであり、甲子園球場で外国人選手としては異例の引退試合が行われたのも頷けます。ちなみに、メッセンジャーはラーメンが大好きで、甲子園には、彼がプロデュースするラーメン店もありました。

阪神にはメッセンジャー以外にも過去、数年にわたりチームを支えた外国人投手がいました。残念ながら最近、相次いで訃報が伝わったのですが、今回は「背番号4」をつけて活躍した、2人の外国人エースのエピソードをご紹介しましょう。

1人目は、つい先日、5月2日に訃報が伝わった右腕、マット・キーオです(享年64)。キーオは1987年~1990年まで4年間、阪神でプレー。1985年、阪神はクリーンアップにバース・掛布・岡田を擁する強力打線で日本一に輝きましたが、キーオが来日したのはその2年後のこと。このころの阪神は、編成上の失敗もあり、チーム力が徐々に低下。キーオが在籍した4年間、阪神の順位は6位→6位→5位→6位という「暗黒時代」でした。

そんな低迷期にあって、キーオは1年目から11勝、12勝、15勝と3年連続で2ケタ勝利を挙げ、ヒザを痛めた4年目も7勝と孤軍奮闘。通算45勝は2リーグ制以降、阪神の外国人投手のなかでメッセンジャーに次ぐ歴代3位の勝ち星です。当時のチーム状況を考えたら、非常に価値のある働きをしたと言えるでしょう。

さらにキーオは、メッセンジャーにもできなかった凄いことをやってのけました。来日1年目の1987年、いきなり開幕投手を務めたのです。オープン戦で他の先発投手たちが振るわないなか、無失点ピッチングを続けたのが抜擢の理由ですが、日本でプレー経験のない外国人投手が1年目から開幕投手を務めるのは、史上初の出来事でした。

トレードマークの口ひげと、陽気なキャラクターで阪神ファンに親しまれたキーオですが、「ちょっと、待っとキーオ!」という、自分の名前をもじったダジャレが持ちネタで、日本語も達者でした。

それもそのはず、実はキーオの父、マーティ・キーオ氏も元メジャーリーガーで、一時南海ホークスに在籍。つまりキーオ親子は2代にわたって、関西の球団でプレーしたわけです。キーオは父親が南海でプレーしていたときに、一緒に来日。日本のアニメを観て育ったそうで、関西に馴染んでいたことも、日本の野球にすぐ対応できた理由でしょう。

また彼は、気さくで面倒見のいい人でもありました。阪神退団後、帰国して古巣・アスレチックスで、スカウトやGM補佐として活動しましたが、2005年、そのアスレチックスに阪神から日本人選手が入団します。キーオと同じ「背番号4」をつけていた元エース・藪恵壹です。

キーオは、虎の後輩である藪に、日本の野球とメジャーの野球の違いを懇切丁寧にレクチャー。同じ「背番号4」のよしみで、メジャー流の配球術まで伝授してくれたそうです。おそらく藪の獲得も、キーオが球団に進言したのでしょう。日本を離れても「タイガース愛」は変わりませんでした。

……少し時代を遡りますがもう1人、1960年代に「背番号4」をつけて活躍した右腕が、ジーン・バッキーです。阪神には1962年~1968年まで、通算7年間在籍。阪神の外国人投手では歴代トップとなる、通算100勝(80敗)を挙げました。

通算防御率が2.34と抜群の安定感を見せ、投手陣を支えたバッキー。メジャー経験のない3A(マイナーリーグ)出身の選手で、阪神にはテスト生として入団しました。当時のバッキーは、球はめっぽう速いけれど、まったくのノーコン。それでも藤本定義監督が「磨けば光るかもしれん」と獲得に踏み切ります。1962年7月、シーズン途中の入団で、この年は0勝3敗と未勝利に終わりました。

翌1963年は8勝5敗でしたが、この年のオフ、阪神は村山実と並ぶ投手陣の柱・小山正明を大毎オリオンズに放出し、大毎の主砲・山内一弘を獲得。いわゆる「世紀のトレード」です。阪神の狙いは、貧打線の強化でした。

フロントはさらに外国人スラッガーの獲得を目論み、バッキーをクビにしようとしましたが、これに待ったを掛けたのが、オフに阪神の投手コーチに就任した杉下茂氏(元中日のエース)でした。杉下コーチは「小山に加えてもう1人欠けたら、投手陣をやり繰りできない。バッキーは残してくれ」とフロントに直談判。お陰でバッキーはクビにならずに済んだのです。

杉下コーチはさっそく、バッキーの徹底指導に乗り出し、動きがバラバラだったフォームを理に適ったものに修正。さらにスライダーも伝授しました。バッキーも杉下コーチの助言を素直に聞き入れ(日本語はこのとき、すでにペラペラでした)、長い手足を活かした「スネーク投法」を確立します。

3年目の1964年、別人のように生まれ変わったバッキーは、この年なんと29勝9敗という驚異的な成績を挙げ、2年ぶりのリーグ優勝に貢献。先発・リリーフ両方をこなし、24試合に完投(!)。それだけ投げて防御率が1.89ですから、あり得ない無双ぶりです。外国人投手として、史上初の沢村賞に輝いたのは当然でした。

以降、1968年まで5年連続2ケタ勝利を続けたバッキー。1965年には甲子園で、全盛時のONを擁する巨人を相手にノーヒットノーランを達成しています。これだけ貢献したのにもかかわらず、テスト生上がりだったが故に、待遇は日本人選手と変わりませんでした。入団時の住まいも、元メジャーリーガーなら高級マンションのところ、バッキーの住まいは甲子園近くの木造アパートでした。それでも文句を言わず、黙々と投げ続けたバッキー。

しかし1968年、試合中の乱闘がもとで、右手親指を骨折。これが投手生命を縮める致命的なケガとなり、バッキーはこの年限りで阪神を去ることになりました。翌1969年は近鉄でプレー。0勝7敗に終わりそのまま引退、帰国しています。

昨年(2019年)9月、故郷・ルイジアナで亡くなりましたが(享年82)、闘志むき出しで甲子園のマウンドに立ち続けた姿は、オールド虎ファンの記憶にいまもしっかりと刻み込まれています。日本人以上に日本人らしかった、2人の偉大なエースに献杯。R.I.P. Tigers #4
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