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夏の甲子園中止……戦時中に開催された“幻の甲子園”大会

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昭和17年に文部省主催で開かれた全国中等学校野球大会。「幻の甲子園大会」といわれてきた 写真提供:共同通信社
話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、戦時中の1942年に開催された“幻の甲子園”と呼ばれる大会のエピソードを取り上げる。

「慎重な情勢判断の結果、本日、第102回全国高等学校野球選手権大会の開催中止の発表に至りました。学校教育の一環を旨とする限り、皆さんの心身の健全な発育と安全が最重要課題です。これが担保されるという確信が持てないことが中止の理由です」(高野連・八田英二会長のメッセージより)

春のセンバツに続いて、夏の選手権も「開催せず」……5月20日、高野連と主催の朝日新聞社はオンラインで運営委員会と理事会を開き、8月に開催される予定だった「第102回全国高校野球選手権大会」および、代表49校を決める地方大会の中止を発表しました。

「開幕3ヵ月前の決定は早すぎるのでは?」という声もある一方、開幕までに49代表が出揃うよう地方大会を完了させるのは日程上すでに困難になっており、「むしろ遅かった」という意見もあります。「都市間の移動は極力避ける」という状況が続く以上、全国から49代表が1ヵ所に集まる大会を開催するのは難しく、やむを得ない決断でした。

緊急事態宣言が解除された県では、独自に地方大会を開催する動きもあります。個人的には、十分に感染防止策を施した上で、可能ならぜひ、無観客でも開催して欲しいと思います。特に3年生にとって、夏の大会は貴重な集大成の場ですから。

ところで、春・夏両大会がともに中止になったのは、戦時中の中断期(1942-1945年)以来のことですが、実は1942年(昭和17年)の夏については、甲子園球場で全国大会が行われていたことをご存知でしょうか? 高校野球ファンの間で“幻の甲子園”と言われている大会です。

夏の選手権の資料を紐解くと、1941年(昭和16年)~1945年(昭和20年)の5年間は「戦争のため中止」とあります(当時の大会名は「全国中等学校野球大会」)。1941年は、春のセンバツは開催されましたが、夏の選手権は、地方予選の進行中に大会中止が決まりました。日中戦争の激化によって兵士や軍事物資の輸送が最優先となり「この非常時に、球児の遠距離移動などまかりならん」ということになったのです。

そしてこの年(1941年)の暮れ、太平洋戦争が勃発。日米開戦でいいよいよ「野球どころではない」状況となりましたが、当時はまだ空襲はなく、プレーすること自体は可能でした。そこで国は「戦意高揚に、国民に人気のある中等野球を利用しよう」と考え、新たに創設されたのが「全国中等学校錬成野球大会」でした。

会場は甲子園球場で、出場は地方予選を勝ち抜いた16校。主催は朝日新聞社ではなく、文部省と外郭団体の大日本学徒体育振興会で、大会は軍部が主導。甲子園のスコアボードには「勝つて兜の緒を締めよ」「戦ひ抜かう(=戦い抜こう)大東亞戦」という横断幕が張られ、選手は「選士」と呼ばれるなど、非常に軍事色の強い大会でした。

球児たちにしてみれば、諦めていた甲子園大会が開催されることは朗報でしたが、この大会、通常の野球ではあり得ない理不尽なルールが採用されていました。その最たるものが「交代禁止」。「選手交代ならびに控え選手の起用は、負傷の場合を除いて原則禁止する」……つまり、プレー不可能な大ケガでない限り、選手は必ず最終回までプレーしろ、というのです。「兵士は戦場で交代などできない」という訳のわからない理由からでした。

大会中、フェンスに激突して足を何針か縫うケガをした選手も出ましたが、交代させてもらえず、そのままプレーしたそうです。さらに驚くのは「死球をよけてはならない」……突撃精神に反するからだそうで、ボールが当たっても一塁には行けず、そのまま続行だったそうです。こうなって来ると、もはや野球でもスポーツでもありません。

この大会の決勝戦は、徳島商と平安中(現・龍谷大平安高、京都)の対決に。試合は延長戦にもつれこむ大熱戦になりましたが、11回ウラ、平安中のエース・富樫淳の押し出し四球で、徳島商がサヨナラ勝ちしています。

実は、準決勝の広島商戦が再試合になり、決勝と同じ日に順延されたため、富樫のヒジは悲鳴をあげ、山なりのボールしか投げられなくなっていました。……そう、「交代禁止」のルールのせいです。何とも言えない気持ちになりますが、この富樫投手は戦後、母校の監督となり、1956年夏の選手権で平安高を全国制覇に導いています。

主催も大会趣旨も異なるため、夏の選手権の歴史にはカウントされていない「全国中等学校錬成野球大会」。以降、戦局が悪化したため、開催されたのはこの1回だけで、資料もほとんど残っていません。「幻の甲子園」と呼ばれるゆえんですが、当時出場した選手たちは、後にインタビューで口を揃えてこう言っています。

「あれは“幻”なんかじゃない。僕たちは確かに、甲子園の土を踏んだんだ」

理不尽なルールを強いられ、戦意高揚に利用されようとも、「甲子園で真剣にプレーした」という事実に変わりはありません。その証しが記録として残らないことが、球児にとってどれだけ悲しいことだったか……。今年の球児たちは、甲子園でプレーする機会すら奪われただけに、当事者でないとわからない喪失感を味わっていると思います。

そこで提案ですが……もし、宣言解除になった地域で独自に地方大会が開催されるのであれば、その優勝校を、来春(2021年)のセンバツ開会式の際、“前年夏の代表”扱いで甲子園に呼んであげるのはどうでしょうか? 同じく甲子園の土を踏めなかった今年(2020年)春のセンバツ代表校も交え、春・夏合同で入場行進を行うのです。

主催社間の調整も必要になりますが、高校側に異論はないはずですし、そうすれば球児たちのモティベーションも違って来ます。関係各位には、あくまで「球児ファースト」で、何かしらフォローする方法を考えてあげて欲しいと思います。高3の夏は、人生で1度きりですから。
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