リミット迎え決断「できる限りやった」
昨季限りで自由契約となっていた石川雄洋氏が21日、DeNAの球団事務所にて引退会見を行った。
地元の名門、横浜高校から2004年のドラフト6位でプロ入りし、2010年にキャリアハイとなる打率.294、盗塁36を記録。2012年からはDeNA体制初のチームキャプテンに就任し、発展途上のチームのまとめ役も担った。近年は出場機会を減らすなか2019年に通算1000本安打を達成したが、昨季はルーキーイヤー以来となる一軍出場ゼロに終わり、シーズン終了後に自由契約となっていた。
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スーツに身を包み、長髪姿で会見に臨んだ石川氏は「退団して、本来はこういうところで(お話を)出来ないかもしれないときにDeNAさんが配慮して頂き、本当に感謝しています」と、会見の場を用意した球団へ感謝。
昨季終了後に自由契約となり、このオフは他球団での現役続行を目指しながら個人練習を続けていたが、自ら設定した「開幕一週間前」のリミットを迎えてもオファーは届かず、現役引退を決断した。
「最後まで自分が決めた期限まではしっかりやりきろう、状況や年齢も年齢なので難しいだろうなと思っていたが、自分で挑戦すると決めたので、最後の最後まで自分のできる限りやった」
引退を発表し「スッキリではないですけど、開放された感じがしますね」と朗らかな表情で、「16年間やらせていただいて、精一杯やってきたんで。悔しいというイメージよりは感謝させてもらっている気持ちのほうが大きい」と横浜一筋のプロキャリアを振り返った。
DeNA初代キャプテン「横浜」の思い出
印象に残っているシーンはDeNA体制の初代チームキャプテンに就任した時期のこと。「TBS時代からDeNAに変わり、ベイスターズがお客さんも入っていない、負けが込んでいた時もありました。辛いこともいっぱい経験しましたし、その中でなんとか頑張ってみんなでどうやったら勝てるんだろうと相談しながらやっていた」と奮闘した日々を振り返る。
それでも“Cマーク”が石川から筒香嘉智(現レイズ)へと引き継がれ、2016年には球団史上初めてクライマックスシリーズ(CS)に進出。「東京ドームの半分が真っ青に埋まった。ファンの方たちが来てくれた」と脳裏に焼き付いた光景も懐かしんだ。
2012年から3シーズンに渡ってチームの先頭に立ったが、「色んな人の助け、アドバイスで支えてもらった。本当に貴重な経験をさせてもらった」と周囲のサポートにも言及しつつ感謝。「キャプテンやっているときにクライマックス出たかった」と低迷期の主将としての悔しさも滲ませたが、「常に強いほうがいいとは思いますけど、どっちも経験できた」と語り、「16年間で出会ったファンの皆様は本当に僕の宝物。DeNAのファンは12球団一で、言葉で伝えきれないくらいの応援をもらった。凄く感謝しています」 とファン思いの一面も見せた。
今後の指導者への転身には「そういう人材だとは思っていない」と前置きしながらも「これから少しでも戻れるように勉強しないといけないと思いますし、逆にそのレベルに達せなかったら戻るべきではない。これから時間がある限り野球の勉強などをしながら、呼んで頂けるように必死に頑張っていくだけ」と現場復帰への意欲も示した。
サプライズで三浦監督が登場
会見の最終盤には三浦大輔監督がサプライズ登場し花束を贈呈。これには石川氏も「嬉しくないって言えないです!入ってきて花束渡されたときに、16年間やってきた三浦監督との思い出が蘇ってきた。込み上げてくるものがあります」と万感。「僕が18、19の頃から野球や私生活と色んなことを勉強させてもらってきた。お世話になって感謝しかない」と恐縮気味に話した。
三浦監督も「グラウンドでもプライベートでも家ににてご飯食べていくこともありましたし。本当にいろいろな思いがあります。弟ってわけでもなく、息子ってほど年も離れていないですけど、たまにお父さんって呼ぶ」ほどの仲。「高卒で入ってきて、ずっと変わらずにいた。野球が好きな純粋な心はずっと今でも変わらず持っている。苦しんでいるときも見てきましたし、一昨年投手コーチやっているときに、上がってきてチームを救ってくれたときも“タケヒロ”らしいなって…」と思い出を語った。
今回の引退については「悩んで葛藤もあっての決断だと思う」としながら、「次のスタートに向かって、野球界に貢献してもらえたら」とエール。「また一緒のユニフォーム着てやりたいなって気持ちはあります」と現場復帰への期待も寄せた。
横浜高校時代も含め計19年間「YOKOHAMA」のユニフォームに袖を通し続けた“記憶にも残る男”石川雄洋氏。いつかまた同じユニフォーム姿で横浜スタジアムへ戻ってきてくれることを願わずにはいられない。
取材・文=萩原孝弘