2018年に惜しまれつつ現役を引退された今成亮太さん。日本ハムからトレードで加入した阪神ではキャッチャーと内外野が守れるユーティリティー性の高さと左打席から繰り出す巧みなバッティングで存在感を発揮。また、オフのファン感謝デーでは毎年先輩選手のモノマネを披露して盛り上げるなど、成績以上にファンに愛された選手でもありました。そんな今成さんに少年時代からこれまで、そしてセカンドキャリアについてお話を聞きました。
(取材・構成=永松欣也 写真=須田康暉)
——2018年に惜しまれつつ引退をされた今成さんですが、現在はどんなお仕事、ご活動をされているのでしょうか?
今成:阪神タイガースのアカデミーコーチとして活動をさせていただきつつ、タレント業をやらせていただいたり、自分で会社を作って「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」のフランチャイズオーナーという形で兵庫県西宮市で子どもたちに野球を教えたりしています。
——2018年のオフにはトライアウトも受けられていましたが、阪神からアカデミーコーチ就任の依頼があったときはどんなお気持ちでしたか?
今成:お声がけを頂いた時はまだ現役でプレーをしたいという気持ちがありましたね。
——他球団から獲得の声もあったと伺いました。
今成:「ドラフトが終わってみないと分からないけど」という前提でしたが、いくつかの球団から声をかけて頂きました。その後、声はかかりませんでしたが。独立リーグや社会人野球からもお話はあったのですが、自分の中ではNPBから声がかからなければ区切りをつけようと、セカンドキャリアに向けてやっていこうと、そういったことをマネージメント会社とも話をしていました。ですので、その時点でアカデミーコーチ就任ということに迷いはなかったですね。
——コーチ、スカウト、スコアラーなどのように現場に近い形で球団に残る選手が多いなかで、「アカデミーコーチ」というのはどのように受け止めましたか?
今成:当時はアカデミーの活動自体も1、2年くらいしかない時期でしたので、正直いってやってみないと分からない部分もありました。でもアカデミーは「振興部」という部署の中にあるのですが、「子ども達に野球を教えてくれ、野球振興に努めてくれ」というお話をされて、なるほどなという感じですんなりと受け止めました。
——子ども達を実際に指導されてみて、苦労されたことなどはありますか?
今成:子ども達が野球のルールを知らない、ボールを捕れない、打てないというところからのスタートだったことに苦労しましたね。僕らがプロでやってきた専門的な技術を教える、そういう場所なのかなと思っていたのですが、そうではなく、まず子ども達が野球を楽しむところから教えなければいけませんでした。打ったら3塁に走ってしまうような子ども達にどうやって野球の楽しさを伝えればいいのか、そういったところで結構悩みもしましたね。
——「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」ではオーナーという立場ですが、どんな仕事をされているのですか?
今成:自分が現場に立つことはあまりないのですが、スタッフの管理、マネジメント、そして会社の経営ですよね。未知なる世界に飛び込んだ感じですけど(笑)。
——直接子ども達と接するスタッフに対しては日頃どんなことを指導されていますか?
今成:まずは子ども達を怪我させない、安全第一ですよね。あとは子ども目線に立ってあげるということですね。自分が分かっていても子どもに伝わらないと意味がないですから。子どもが理解できるようにかみ砕いて伝えるということをスタッフには話しています。
——今は子どもに野球を教える立場の今成さんですが、ご自身が野球を始めたのは何歳の時ですか?
今成:小さい頃の写真を見ると3歳くらいにはもうボールとバットを持っていたので、物心ついたときからやっていましたね(笑)。父親がプロ野球のスカウトをやっていて、3つ上の兄もやっていましたから、自然と野球が環境の中にある、野球一家で育ちましたからね。
——チームに所属されたのは?
今成:幼稚園のときに地元の少年野球チームに入りました。本当は1年生からじゃないと入れないんですけど、兄について練習にも行ったりしていたので特別に入れてもらって。その頃はライトを守っていて、レギュラーになってからはピッチャーとショートを守っていました。
——少年野球時代を振り返ってみて、当時の経験などで今に生きていることなどはありますか?
今成:どうやったら速いボールを投げられるかなとか、色んな選手の投げ方を真似してみて「この投げ方は球速が上がる」とか、壁当ての時に握りを変えて投げてみたりとか、石を打ったりして「こうやって打ったらこういう打球が飛ぶんだ」とか、自分を実験台にしながら試したりとか、そんな風に自分で色々と考えながら練習をしていたことですね。
——当時からそこまで考えて一人で練習ができたのはなぜだと思いますか?
今成:上手くなりたいという思いがあったからですね。あとはやっぱり野球が好きだったからでしょうね。
——野球大好き少年だった今成さんですが、あの練習は嫌だったとか、あの練習は意味があったのか? とか思い出されるものはありますか?
今成:少年時代というか、高校時代の「死ぬまで走っておけ!」「死ぬまでバット振っとけ!」とかですね(笑)。
——高校時代というと浦和学院時代の?
今成:あんまり高校時代の話をしちゃうと「営業妨害するな!」って森監督から電話がかかってくるんですよ(笑)。
——あくまでも今成さんの高校時代のお話ということで(笑)。今はそんなことはないと思いますけども。
今成:何のためにこの練習をやっているのか? というのが明確だと頑張れるんですけど、根拠のない練習がすごく嫌いだったんです。ゴールや目標が見えない練習も嫌いでしたね。例えば「10kmを何分以内に走れ!」だったら頑張れるんですけど、「俺がいいというまで走れ」みたいな練習がすごく嫌いで(笑)。
——そういった経験がアカデミーやスクールで生かされたりしているのですか?
今成:そうですね。子ども達にその練習の目的意識をしっかり持たせてやらせたいなと思っていますので、当時の経験がそういうところに繋がっていると思いますね。
——今成さんといえばユーティリティー性の高さがセールスポイントだったと思いますが、キャッチャー、外野なども守りつつサードの守備のうまさに定評がありましたね。
今成:キャッチャーでプロに入りましたが本格的にやったのは高校からなんです。それまではピッチャーと内野でしたから、そもそも内野の経験がベースとしてありました。あとは当時の高代コーチに言わせると、脚力があまりなかったことが良かったみたいです。
——脚力がないのがよかった?
今成:例えば良い二遊間の選手って脚力がありすぎてサードが守れないらしいんですね。どちらかというと反応が鈍感な方がサードに向いていると言われました。ショートは打者が打つ前にボールの軌道やバットの角度などを見て動き始めたりするのですが、サードは打者との距離が近いので打つ前に動いてしまうと逆を突かれたときに反応できないんです。打球が飛んできてから反応するのが大事だと。その中でキャッチャーとして速いボールを捕る、下から捕るということをずっとやってきていましたし、スローイングにも自信を持っていましたので、そういった部分がサードにマッチしたのかなと思っています。
——子どもの頃から色んなポジションを守っていた経験も大きかったわけですね。
今成:そうですね。あとは中学時代に週末はシニアで野球をやりつつ平日は部活でサッカーをやっていたことも大きかったなと思います。足を細かく使うことがアジリティ系のトレーニングになって内野の守備にも生きた気がしますね。あと、今にして良かったと思うのは無意識でずっと左足で蹴っていたことですね。利き足と違う足を使うことでそれも脳への良い刺激になっていたと思うんですよね。
——なぜ左足で蹴っていたのですか?
今成:当時ブラジル代表に左利きのリヴァウドっていうすごい選手がいて、単純に左で蹴るのが格好良い、あとちょっとモテたいなと思っただけなんですけどね(笑)。
——埼玉県内外にも強い高校が多くある中で浦和学院を選んだ理由は?
今成:色んな高校から声をかけて頂いたんですけど、僕の中ではやっぱりプロというのを意識していて、まず甲子園に出ることが自分をアピールできる一番の場所だという思いがありました。その中で当時の浦和学院は3年に2回は甲子園に出ているというデータがあって甲子園に出る確率が高いこと、自分が1年生から試合に出やすいこと、そして上級生にプロ注目選手がいること、それが大きかったですね。
——「上級生にプロ注目選手がいる」ことを重視されたのは?
今成:そこで1年からレギュラーを取ることができれば、その先輩を見に来たプロのスカウトの方に見てもらえるのではないかと考えたんです。
——それはスカウトをされていたお父様の助言ですか?
今成:父親は野球に関しては全く何も言わなかったですね。プロアマ問題もあったと思うのですが。唯一覚えているのは小さい頃、家の中で正座したままスローイング練習をさせられたことですね。母親の嫁入り道具の棚に向かって投げさせられていました。母親にお願いだから止めてくれって言われましたけど(笑)。
——プロに行くことから逆算をして浦和学院を選んだんですね。
今成:実はそれだけでもないんです。3つ上の兄も、結局行かなかったんですけど、高校進学の際に浦和学院の森監督に熱心に誘われていまして、そんなことで僕が小6の時から森監督とは面識があったんです。当時大竹寛さん(現巨人)を擁して2期連続埼玉県大会の決勝で浦和学院が負けていて監督さんが落ち込んでいたんですけど、そんなときに「こんなこともありますよ、つぎつぎ」と森監督の頭をポンポン叩いていたんですよ、僕(笑)。
——(笑)。
今成:それで「お前は絶対にウチに来い!」って言って頂いて。そのことを森監督も覚えていて、僕が中三の時に「あの時のことを覚えているか? 俺を甲子園に連れて行ってくれ」と言われて、そういった縁もあったんですよね。
——そして森監督に鍛えられ、見事にプロ入りの夢を叶えられたわけですね。最後になりますが、全国の野球少年少女達に向けて一言お願いします。
今成:野球を楽しむことが成長に繋がると思っています。ですので、まずは野球を好きになって欲しいですね。その中で「もっと上手くなりたい」とか「どうしたらプロになれるのかな?」といった思いが出てきたらぜひ「ダイアモンドアライアンススポーツアカデミー」に来てほしいと思います。僕たちは「教える」というよりも、その思いをサポートする、子ども達と一緒に成長していきたいと思っていますので、いつでも気兼ねなく遊びに来て欲しいと思います。
▼ 今成亮太
1987年埼玉県富士見市出身。浦和学院高から2005年の高校生ドラフト4巡目で日本ハムへと入団し、2012年からは阪神でプレー。内野の複数ポジションだけでなく外野、さらには捕手もこなすことができるユーティリティ性で多くのチャンスを掴んだ。2018年オフに現役引退し、現在は阪神が運営する「タイガースアカデミー ベースボールスクール」のコーチを務めながら、「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」のフランチャイズオーナーとして兵庫県西宮市でスクールを運営している。
(取材・構成=永松欣也 写真=須田康暉)
ルールを知らない子どもに野球の楽しさを伝える難しさ
——2018年に惜しまれつつ引退をされた今成さんですが、現在はどんなお仕事、ご活動をされているのでしょうか?
今成:阪神タイガースのアカデミーコーチとして活動をさせていただきつつ、タレント業をやらせていただいたり、自分で会社を作って「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」のフランチャイズオーナーという形で兵庫県西宮市で子どもたちに野球を教えたりしています。
——2018年のオフにはトライアウトも受けられていましたが、阪神からアカデミーコーチ就任の依頼があったときはどんなお気持ちでしたか?
今成:お声がけを頂いた時はまだ現役でプレーをしたいという気持ちがありましたね。
——他球団から獲得の声もあったと伺いました。
今成:「ドラフトが終わってみないと分からないけど」という前提でしたが、いくつかの球団から声をかけて頂きました。その後、声はかかりませんでしたが。独立リーグや社会人野球からもお話はあったのですが、自分の中ではNPBから声がかからなければ区切りをつけようと、セカンドキャリアに向けてやっていこうと、そういったことをマネージメント会社とも話をしていました。ですので、その時点でアカデミーコーチ就任ということに迷いはなかったですね。
——コーチ、スカウト、スコアラーなどのように現場に近い形で球団に残る選手が多いなかで、「アカデミーコーチ」というのはどのように受け止めましたか?
今成:当時はアカデミーの活動自体も1、2年くらいしかない時期でしたので、正直いってやってみないと分からない部分もありました。でもアカデミーは「振興部」という部署の中にあるのですが、「子ども達に野球を教えてくれ、野球振興に努めてくれ」というお話をされて、なるほどなという感じですんなりと受け止めました。
——子ども達を実際に指導されてみて、苦労されたことなどはありますか?
今成:子ども達が野球のルールを知らない、ボールを捕れない、打てないというところからのスタートだったことに苦労しましたね。僕らがプロでやってきた専門的な技術を教える、そういう場所なのかなと思っていたのですが、そうではなく、まず子ども達が野球を楽しむところから教えなければいけませんでした。打ったら3塁に走ってしまうような子ども達にどうやって野球の楽しさを伝えればいいのか、そういったところで結構悩みもしましたね。
——「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」ではオーナーという立場ですが、どんな仕事をされているのですか?
今成:自分が現場に立つことはあまりないのですが、スタッフの管理、マネジメント、そして会社の経営ですよね。未知なる世界に飛び込んだ感じですけど(笑)。
——直接子ども達と接するスタッフに対しては日頃どんなことを指導されていますか?
今成:まずは子ども達を怪我させない、安全第一ですよね。あとは子ども目線に立ってあげるということですね。自分が分かっていても子どもに伝わらないと意味がないですから。子どもが理解できるようにかみ砕いて伝えるということをスタッフには話しています。
考えながら一人で練習していた少年時代
——今は子どもに野球を教える立場の今成さんですが、ご自身が野球を始めたのは何歳の時ですか?
今成:小さい頃の写真を見ると3歳くらいにはもうボールとバットを持っていたので、物心ついたときからやっていましたね(笑)。父親がプロ野球のスカウトをやっていて、3つ上の兄もやっていましたから、自然と野球が環境の中にある、野球一家で育ちましたからね。
——チームに所属されたのは?
今成:幼稚園のときに地元の少年野球チームに入りました。本当は1年生からじゃないと入れないんですけど、兄について練習にも行ったりしていたので特別に入れてもらって。その頃はライトを守っていて、レギュラーになってからはピッチャーとショートを守っていました。
——少年野球時代を振り返ってみて、当時の経験などで今に生きていることなどはありますか?
今成:どうやったら速いボールを投げられるかなとか、色んな選手の投げ方を真似してみて「この投げ方は球速が上がる」とか、壁当ての時に握りを変えて投げてみたりとか、石を打ったりして「こうやって打ったらこういう打球が飛ぶんだ」とか、自分を実験台にしながら試したりとか、そんな風に自分で色々と考えながら練習をしていたことですね。
——当時からそこまで考えて一人で練習ができたのはなぜだと思いますか?
今成:上手くなりたいという思いがあったからですね。あとはやっぱり野球が好きだったからでしょうね。
ゴールや目標が見えない練習がすごく嫌い
——野球大好き少年だった今成さんですが、あの練習は嫌だったとか、あの練習は意味があったのか? とか思い出されるものはありますか?
今成:少年時代というか、高校時代の「死ぬまで走っておけ!」「死ぬまでバット振っとけ!」とかですね(笑)。
——高校時代というと浦和学院時代の?
今成:あんまり高校時代の話をしちゃうと「営業妨害するな!」って森監督から電話がかかってくるんですよ(笑)。
——あくまでも今成さんの高校時代のお話ということで(笑)。今はそんなことはないと思いますけども。
今成:何のためにこの練習をやっているのか? というのが明確だと頑張れるんですけど、根拠のない練習がすごく嫌いだったんです。ゴールや目標が見えない練習も嫌いでしたね。例えば「10kmを何分以内に走れ!」だったら頑張れるんですけど、「俺がいいというまで走れ」みたいな練習がすごく嫌いで(笑)。
——そういった経験がアカデミーやスクールで生かされたりしているのですか?
今成:そうですね。子ども達にその練習の目的意識をしっかり持たせてやらせたいなと思っていますので、当時の経験がそういうところに繋がっていると思いますね。
プロで役立った、中学時代のサッカー経験
——今成さんといえばユーティリティー性の高さがセールスポイントだったと思いますが、キャッチャー、外野なども守りつつサードの守備のうまさに定評がありましたね。
今成:キャッチャーでプロに入りましたが本格的にやったのは高校からなんです。それまではピッチャーと内野でしたから、そもそも内野の経験がベースとしてありました。あとは当時の高代コーチに言わせると、脚力があまりなかったことが良かったみたいです。
——脚力がないのがよかった?
今成:例えば良い二遊間の選手って脚力がありすぎてサードが守れないらしいんですね。どちらかというと反応が鈍感な方がサードに向いていると言われました。ショートは打者が打つ前にボールの軌道やバットの角度などを見て動き始めたりするのですが、サードは打者との距離が近いので打つ前に動いてしまうと逆を突かれたときに反応できないんです。打球が飛んできてから反応するのが大事だと。その中でキャッチャーとして速いボールを捕る、下から捕るということをずっとやってきていましたし、スローイングにも自信を持っていましたので、そういった部分がサードにマッチしたのかなと思っています。
——子どもの頃から色んなポジションを守っていた経験も大きかったわけですね。
今成:そうですね。あとは中学時代に週末はシニアで野球をやりつつ平日は部活でサッカーをやっていたことも大きかったなと思います。足を細かく使うことがアジリティ系のトレーニングになって内野の守備にも生きた気がしますね。あと、今にして良かったと思うのは無意識でずっと左足で蹴っていたことですね。利き足と違う足を使うことでそれも脳への良い刺激になっていたと思うんですよね。
——なぜ左足で蹴っていたのですか?
今成:当時ブラジル代表に左利きのリヴァウドっていうすごい選手がいて、単純に左で蹴るのが格好良い、あとちょっとモテたいなと思っただけなんですけどね(笑)。
目標から逆算して選んだ浦和学院
——埼玉県内外にも強い高校が多くある中で浦和学院を選んだ理由は?
今成:色んな高校から声をかけて頂いたんですけど、僕の中ではやっぱりプロというのを意識していて、まず甲子園に出ることが自分をアピールできる一番の場所だという思いがありました。その中で当時の浦和学院は3年に2回は甲子園に出ているというデータがあって甲子園に出る確率が高いこと、自分が1年生から試合に出やすいこと、そして上級生にプロ注目選手がいること、それが大きかったですね。
——「上級生にプロ注目選手がいる」ことを重視されたのは?
今成:そこで1年からレギュラーを取ることができれば、その先輩を見に来たプロのスカウトの方に見てもらえるのではないかと考えたんです。
——それはスカウトをされていたお父様の助言ですか?
今成:父親は野球に関しては全く何も言わなかったですね。プロアマ問題もあったと思うのですが。唯一覚えているのは小さい頃、家の中で正座したままスローイング練習をさせられたことですね。母親の嫁入り道具の棚に向かって投げさせられていました。母親にお願いだから止めてくれって言われましたけど(笑)。
——プロに行くことから逆算をして浦和学院を選んだんですね。
今成:実はそれだけでもないんです。3つ上の兄も、結局行かなかったんですけど、高校進学の際に浦和学院の森監督に熱心に誘われていまして、そんなことで僕が小6の時から森監督とは面識があったんです。当時大竹寛さん(現巨人)を擁して2期連続埼玉県大会の決勝で浦和学院が負けていて監督さんが落ち込んでいたんですけど、そんなときに「こんなこともありますよ、つぎつぎ」と森監督の頭をポンポン叩いていたんですよ、僕(笑)。
——(笑)。
今成:それで「お前は絶対にウチに来い!」って言って頂いて。そのことを森監督も覚えていて、僕が中三の時に「あの時のことを覚えているか? 俺を甲子園に連れて行ってくれ」と言われて、そういった縁もあったんですよね。
——そして森監督に鍛えられ、見事にプロ入りの夢を叶えられたわけですね。最後になりますが、全国の野球少年少女達に向けて一言お願いします。
今成:野球を楽しむことが成長に繋がると思っています。ですので、まずは野球を好きになって欲しいですね。その中で「もっと上手くなりたい」とか「どうしたらプロになれるのかな?」といった思いが出てきたらぜひ「ダイアモンドアライアンススポーツアカデミー」に来てほしいと思います。僕たちは「教える」というよりも、その思いをサポートする、子ども達と一緒に成長していきたいと思っていますので、いつでも気兼ねなく遊びに来て欲しいと思います。
▼ 今成亮太
1987年埼玉県富士見市出身。浦和学院高から2005年の高校生ドラフト4巡目で日本ハムへと入団し、2012年からは阪神でプレー。内野の複数ポジションだけでなく外野、さらには捕手もこなすことができるユーティリティ性で多くのチャンスを掴んだ。2018年オフに現役引退し、現在は阪神が運営する「タイガースアカデミー ベースボールスクール」のコーチを務めながら、「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」のフランチャイズオーナーとして兵庫県西宮市でスクールを運営している。