2021.10.19 17:45 | ||||
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メットライフ |
約1時間に及んだ引退会見
今季限りでの現役引退を表明し、19日に引退登板を行う松坂大輔投手(41)が同日に引退会見を行った。
松坂は会見の冒頭で「今シーズンをもちまして、引退することをご報告させていただきます」と、あらためて現役引退を表明。決断までの経緯、家族への思い、日米通算23年間のプロキャリアについて、約1時間をかけて自らの言葉で振り返った。
「ボールを投げることが怖くなってしまった」
今の自分の体の状態のこともありますし、やっぱり続けるのは難しいと思っていたので、できるだけ早く皆さんの前に出てきて報告できればよかったんですけど、7月7日に引退発表があって、当初はすぐに会見を準備してもらう予定だったんですけど、僕自身が発表したものの、なかなか受け入れられなかった。
発表したにもかかわらず、自分の中で気持ちが揺れ動いてるというか、そのなかで会見をするのもなと思って、球団にちょっと待ってくださいと言ってだいぶたっちゃんだですけど。発表してから3カ月間、やれそうだなと思った日は一度もなかったですね。だからできるだけ早く終わらせられたらいんだろうなと思って過ごしていました。
――引退決断のいちばんの要因
昨年の春先に右腕の痺れが強く出るようになって、その中でもなんとか投げることができたんですけど、コロナ禍で緊急事態宣言になりトレーニングも治療もままならないなかで症状が悪化して。できれば手術を受けたくなかったんですけど、毎日のように首の痛みやしびれで寝られないことが続いて、まいってしまって手術を決断したんですけど。これまでリハビリを続けてもなかなか症状が改善しなかった。
その中でも今年のキャンプでバッティングピッチャーをやって、次にはファームの試合で投げられそうだねという話をした矢先にブルペンで投球練習をしたときに何の前触れもなく右バッターの頭の方にとんでもない抜け方をして。ピッチャーは抜けそうだなというときに指先で引っ掛けたりするんですけど、それができないくらいの感覚の無さというんですかね。そのたった1球でボールを投げることが怖くなってしまった。そんな経験は一度もなかったのでショックが大きくて、松井二軍監督に相談してちょっと時間くださいとお願いしたんですけど。時間をもらったんですけど右手の痺れが改善しなかったので、もう投げるのは無理だなと。それでやめなきゃいけないと自分に言い聞かせた感じですね。
――決断の時期
球団に報告する一週間前とかだったと思います。球団にお願いして休ませてもらったのが5月の頭くらいだったので、2カ月間ずっと悩んで考えて、その中でも治療して投げられたらと思ったんですけど、もう時間がないなと。
――相談は?
難しいかもしれないという話は家族にはしてました。
――家族の反応は
うーん……。もう…だから会見したくなかったんですよね(笑)
やめると決断したときに妻に電話したんですけど、ちょうど息子がいて……。お疲れ様でしたと言ってもらいましたし……僕の方からもたくさん苦労をかけたけど、長い間サポートしてくれてありがとうと伝えさせてもらった。
――振り返って
一言で感謝と言ってしまえば簡単なんですけど、そんな簡単なものではなかったですし、いい思いもさせてあげられたかもしれないですけど、家族は家族なりに我慢というかストレスもあったと思いますし。本当に長い間、我慢してもらったなと思いますね。
――いちばん感謝を伝えたい
妻もそうですし、子供たちもそうですし、両親もそうですし、これまで僕の野球人生に関わっていただいたアンチファンの方も含めて感謝しています。
――今後は
家族との時間を増やしながら違う角度で野球を見ていきたいと思いますし、野球以外にも興味あることはたくさんあるので、そういうことにもチャレンジしていきたいし、野球界、スポーツ界になにか恩返しできる形を作っていけたらいいなと思っています。
「本当は投げたくなかった」
――プロ23年間
本当に長くプレーさせてもらいましたけど、半分以上は故障との戦いだったと思いますし、最初の10年があったからここまでやらせてもらえたと思いますし、僕みたいな選手はなかなかいないかもしれないですね。一番いい思いと、自分で言うのもなんですけど、どん底も同じくらい経験した選手というのはいないかもしれないですね。
――松坂大輔の評価
長くやったわりには思ってたほどの成績は残せなかったなと思いますね。通算勝利数も170個積みかさねてきましたけど、ほぼ最初の10年でできた数字。自分の肩の状態は良くなかったですけど、そこからさらに上乗せできると思っていました。
――褒めてあげたい部分
選手生活の後半は叩かれることの方が多かったですけど、それでも諦めずに…。諦めの悪さを褒めてやりたいですね。
もっと早く辞めてもいいタイミングはあったと思いますし、なかなか思ったようなパフォーマンスが出せない時期が長くて、自分自身苦しかったですけど、その分、たくさんの方にも迷惑をかけてきましたけど、よく諦めずにここまでやってきたなと思います。
最後は、これまでは叩かれたり批判されたりすることに対して、それを力に変えて跳ね返してやろうとやってきましたけど、やっぱり最後はそれに耐えられなかったですね。最後は心が折れたというか。今までエネルギーに変えられたものが、もう受け止めて跳ね返す力はなかったです。
――印象に残っている勝負
その質問されるだろうなと思っていろいろ考えてたんですけど、ベストピッチやベストゲームだったり、いろいろありすぎて、なかなかこの人、この試合、このこの1球と決めるのは難しいですね。
見て感じるものだったり、残るものって人それぞれ違うと思うので、なにかをきっかけにあんなボールなげてたな、あんなバッターを対戦してたな、あんなゲームあったなとか思い出してくれたらいいかなと思います。
――18番への思い
小さい頃にプロ野球を見始めて、ほぼ巨人戦しかやってなかったので、桑田さんの背番号18がものすごくかっこよく見えて、最初はエースナンバーって知らなかったですけど、その衝撃が残っていたんですかね。だからエースナンバーと知る前からプロに入ったら18番をつけたいと思ってずっとやっていました。
なにかと「18」という数字に拘ってきた。周りにいい加減しろって言われるくらい何かと「18」「1」と「8」をつけたがる自分がいましたね。途中背番号は変わりましたけど、最後に18番をつけさせてくれた球団には感謝したいと思います。
――最後のマウンド
本当は投げたくなかったですね。今の自分の体の状態もあるし、この状態でどこまで投げられるのかというのもありましたし。もうこれ以上、ダメな姿は見せたくないって思っていたんですけど。引退をたくさんの方に報告させてもらいましたけど、やっぱり最後、ユニフォーム姿でマウンドに立っている松坂大輔を見たいと、言ってくれる方々がいたので。もうどうしようもない姿かもしれないですけど、最後の最後は全部さらけ出して見てもらおうと思いました。
特に引退セレモニーとかはないんですけど、セレモニーに関しては改めてファン感謝デーのときにやらせてもらえるということなので、そこで改めてファンの方々には何か伝えられたらいいなと思っています。きょうは最後にグラウンドを一周してスタンドに挨拶だけはさせてもらいます。
今日やるとナイターですし、(報道陣の)皆さんも時間ないと思いますし、僕の気遣いです。(笑)終電もありますし。(笑)
「野球を好きなまま終われてよかった」
――松坂大輔にとって「野球」とは
気の利いたことを言えたらいいんですけどね。5歳から野球を始めて35年以上になりますけど、ここまできた僕の人生そのものだと言えますし、その中で本当にたくさんの方々に出会えて、助けてもらって、ここまで生かされてきた。本当に皆さんに感謝しています。何球投げられるかわからないですけど、最後のマウンドにいってきたいと思います。
――辛い思いをした後半の10年、野球への思いが揺らいだときはあったのか?
これは僕だけじゃなくて、怪我をしている選手、なかなか結果が出ない選手いると思うんですけど、その時間はすごく苦しい。周りの方が思っている以上に。僕の場合は野球を始めた頃から変わらない野球の楽しさ、野球が好きだという、その都度思い出してなんとか気持ちが消えないように戦っていた時期はありますね。
どんなに落ち込んでも最後にはやっぱり野球が好きだ。まだまだ続けたい。後半はギリギリのところでやっていたと思います。いつ気持ちがキレてもおかしくなかった。(野球を)好きなまま終われてよかったです。
――ブルペンの話はいつ頃?
4月の終わりの方だったと思います。ゴールデンウィーク前くらいから休ませてもらったんで。
――自信を持って投げられた最後はいつ頃?
2008年くらいですかね。今でも忘れないというか、細かい日付は覚えてないですけど、2008年の5月か6月か、チームがオークランドに遠征中で。その前の試合で投げて、オークランドで登板間のブルペンの日だったんですけど、ブルペンに向かう途中で足を滑らせて咄嗟にポールのようなものを掴んだんですけど、その時に右肩を痛めてしまって。そのシーズンは大丈夫だったんですけど、シーズンオフからいつもの肩の状態じゃないと思いだして、そこからはもう肩の状態を維持するのに必死でしたね。
フォームが大きく変わり始めたのが2009年くらいだと思うんですけど、その頃には痛くない投げ方、痛みが出ても投げられる投げ方を探し始めていた。その時にはもう自分が求めるボールは投げられていなかったです。それからは、そのとき、そのときの最善策を見つけるというそんな作業ばかりしていました。
「投げたかった僕の分も毅には投げ続けてほしい」
――同世代の選手へ
本当にいい仲間に恵まれた世代だったなと思います。
みんな仲がよかったですし、言葉に出さなくても分かり合えることもありましたし、松坂世代という名前がついてましたけど、うーん…。自分は松坂世代と言われることがあまり好きではなかったんですけど、僕の周りの同世代のみんながそれを嫌がらなかったおかげで、ついてきてくれたと言うとおこがましいかもしれないですけど、そんなみんながいたから、先頭を走ることができたというんですかね。みんなの接し方が本当にありがたかったなと思いますね。
それと同時に自分の名前がつく以上、その世代のトップでなければならいと、思ってやってきましたけど、それがあったから最後まであきらめずに、ここまで諦めずにやれてこれたかなと思いますし、最後のひとりになった(和田)毅にはですね、僕の前に辞めていった選手たちが、残っていた僕らに託していったように、まだまだ投げたかった僕の分も毅には投げ続けていってほしいなと思います。できるだけ長くやってほしいなと思います。本当に同世代の仲間には感謝しています。
――プロの投手として登板時に心掛けてきたこと
この23年間、あまり自分の状態がよくなくて、投げたくないな、できれば代わってもらいたいなと思う時期もあったんですけど、やっぱり、最後は、逃げない、立ち向かう、どんな状況も全て受け入れる、自分に不利な状況も跳ね返してやる、試合のマウンドに立つ、その瞬間には、必ずその気持ちをもって立つようにしてました。ギリギリまで嫌だなと思う時もありましたけどね、その覚悟を持ってマウンドに立つようにしていました。
――大舞台で力を発揮できない子供たちへアドバイス
国際大会とか、試合によっては厳しい状況もあったんですけ、このマウンドに立てる自分がカッコイイと思うようにしていた。他の人に任せた方がいい時もあったかもしれないけど、そういう大きな舞台、目立てる舞台に立てる自分がカッコイイと思うようにしてたからなんですかね。毎回勝っていたわけではなく、痛い思いをしたこともありましたけど、そういう舞台に立てるのはカッコイイことだと思うので、みんなにはそういう舞台に積極的に立ってもらいたいなと思います。
――後悔や心残りは?
やっぱりライオンズに入団したときに東尾さんに200勝のボールをいただいたので、自分自身が200勝して、お返ししたかったなって思います。それがいちばん先に思いますかね。ちゃんと持ってますよ。200勝のボールは。
――自分にどのような声をかけてあげたいか
もう十分やったじゃん。長い間、お疲れ様。って言いますかね。
――子供からの労いの言葉
家族も僕の体の状態をわかっていましたし、実際に辞めるよって言う前にも、もうそろそろ辞めるかもねって話をしたときは喜んでいたんですけどね。子供たちは遊ぶ時間が増えると言っていたんですけど、実際に辞めると報告したときは、みんな泣いていたんで、やったーお疲れ様と言われるのかと思ってたんですけど、みんなしばらく泣いていたんで。僕にはわからない感情を妻や子供たちはもっていたのかもしれないですね。
でも、それを知って、あらためて、感謝の気持ちと同時に、申し訳なかったなという気持ちになりましたね。
あんまり家族のことは言いたくないですし、言わないようにしてきたんですけど…。うん……。妻と結婚してもらうときも、批判の声だったり、叩かれることもたくさんあると思うけど、自分が守っていくからといって結婚してもらったんですけど。半分以上それができなくて本当に申し訳なかったなと思います。
妻は本当に関係ないところで叩かれたりすることもあって本当に大変だったと思います。そんなに気持ちの強い人ではなかったので、本当に迷惑をかけたと思いますし、その中でここまでサポートしてくれて本当にありがとうございましたと、あらためて言いたいです。
――家族とやりたいこと
最近、家の庭で野菜を育てたりしているので、そうことをみんなで楽しみながらやっていきたいなと思いますね。そういう、大したことではないかもしれないですけど、そういうことをさせてあげられなかったので、これからはそういう時間を増やしていけてばと思います。
――「諦めの悪さ」の一番の原動力は?
すべてがそういうわけではないですけど、諦めなければ、最後は報われると、それを強く感じさせてくれたのは、夏の甲子園のPL学園との試合ですかね。
今の質問でパッとその試合がでてきたので、あの試合があったからですかね。最後まで諦めなければ報われる、勝てる、喜べると。あの試合が諦めの悪さの原点なのかなと思います。