広島を支えた「精密機械」
交流戦最後のカード(※雨天中止分は除く)の初戦となった16日。野球界に突然の訃報が舞い込んだ。
広島のエースとして黄金期を築き、通算213勝を挙げた北別府学さんが広島市内の病院で死去した。65歳だった。正確無比な制球力で「精密機械」の異名を取り、1978年から1988年まで11年連続で2ケタ勝利を挙げるなど、チームの大黒柱として5度のリーグ優勝と3度の日本一に大きく貢献した。
16日放送のCSフジテレビONE『プロ野球ニュース』でも、冒頭で大投手の訃報が伝えられた。番組に出演した解説者の平松政次氏は「はじめて投げた時に見たのかな?素晴らしい投手だなと思って、その時の印象を当時の古葉(竹識)監督に話したんですよ。“しばらくエースはいりませんね”って。そこからはずっと活躍をして、広島の大エースになりましたね」と現役時代の強烈に残った印象を振り返る。
また、近年では沢村賞の選考委員としてオフに顔を合わせる機会があったと言い、「一昨年の選考会が終わった後に“僕、白血病なんです”って聞かされた。かんたんに言ったもんで、次の年にはまた元気に会えるのかなと思ったほどだったんですが。残念ですね」と突然の別れを悼んだ。
中日を初の日本一に導いた「フォークボールの神様」
そしてこの日はもうひとつ、悲しい一報が届いた。「フォークボールの神様」と呼ばれ、中日の初の日本一に貢献した杉下茂さんが12日に死去していたことが明らかになった。97歳だった。
日本で初めてフォークボールを投じたという伝説的右腕。1950年から6年連続で20勝以上を挙げ、1954年には2度目の32勝をマークして中日初のリーグ制覇と日本シリーズ制覇に大きく貢献した。
同年を含めて沢村賞に輝くこと3回、わずか11年のキャリアで215勝を記録。90歳を超えても臨時コーチとして投手の指導にあたるなど、フォークの伝道師として精力的にキャンプ地を歩き回る姿も印象的だった。
平松氏は杉下さんとの思い出について、「20個以上歳が離れていたので、一緒にやったことはなかったんですが、たまたま中日のキャンプを訪れた時にお話する機会があったので、“僕もフォークボールを投げたんですが、全然落ちませんでした”と言ったら投げ方を聞かれて……」とフォーク談義に花を咲かせたことがあったという。
詳細を伝えると、「“そんな投げ方しているからだよ”って。“しっかりと指にはめて、想いっきり投げれば落ちるんだ”とおっしゃっていた」と指導を受けたと言い、「それができていればあと10勝、20勝も勝てたかなと。それぐらいすごいフォークだった。習いたかったですね」と印象的なやり取りを挙げながら思い出を振り返った。
☆協力:フジテレビONE『プロ野球ニュース2023』