プロ野球解説者の谷繁元信さんのYouTubeチャンネル『谷繁ベースボールチャンネル』で29日、古田敦也さんとの対談の最終回が配信され、選手兼任監督の難しさにについて語りあった。
古田さんはヤクルト時代の06年と07年の2年間選手兼任監督をし、谷繁さんも中日時代の14年と15年の2年は選手兼任監督を務めた。古田さんが「大変だよな」と話すと、古田さんと谷繁さんはお互いに笑顔。
古田さんが「何が大変なの?」と話を振ると、谷繁さんは「僕が思ったのはほぼ終わりかけだったじゃないですか。終わりかけって自分が出る出ないが、きつかったんですよ。自分が元気だったら、こうやってやっていこうというのができたと思うんですけど、そこの葛藤もあったし、両方の準備をしないといけない仕事量の多さもきつかった。体的にも44、45の年だったので、自分が思っているよりも疲れがとりにくかったので、その辺がしんどかったですね」と振り返った。
古田さんも「監督やった時点で(正捕手の)後任探し。自分がほぼほぼ出ていたから、1番の仕事はそれだと思っていて、極力出ないようにして、若い選手を使った。でも出ろと言われるんですよ、負けるから」と話すと、谷繁氏は「そうでしょう」と同調。続けて古田さんは「古田出ろと言われるから、そこで考えたのが代打・オレだった」と明かしていた。
古田さんはヤクルト時代の06年と07年の2年間選手兼任監督をし、谷繁さんも中日時代の14年と15年の2年は選手兼任監督を務めた。古田さんが「大変だよな」と話すと、古田さんと谷繁さんはお互いに笑顔。
古田さんが「何が大変なの?」と話を振ると、谷繁さんは「僕が思ったのはほぼ終わりかけだったじゃないですか。終わりかけって自分が出る出ないが、きつかったんですよ。自分が元気だったら、こうやってやっていこうというのができたと思うんですけど、そこの葛藤もあったし、両方の準備をしないといけない仕事量の多さもきつかった。体的にも44、45の年だったので、自分が思っているよりも疲れがとりにくかったので、その辺がしんどかったですね」と振り返った。
古田さんも「監督やった時点で(正捕手の)後任探し。自分がほぼほぼ出ていたから、1番の仕事はそれだと思っていて、極力出ないようにして、若い選手を使った。でも出ろと言われるんですよ、負けるから」と話すと、谷繁氏は「そうでしょう」と同調。続けて古田さんは「古田出ろと言われるから、そこで考えたのが代打・オレだった」と明かしていた。