帝京、13年ぶり夏の甲子園出場ならず
帝京高は29日に神宮球場で行われた『第106回全国高等学校野球選手権大会東東京大会決勝戦』で関東第一に5-8で敗れ、現日本ハムの松本剛が主将を務めていた2011年夏以来13年ぶりの甲子園切符とはならなかった。
帝京高OBでDeNA・山﨑康晃は母校が東東京大会決勝進出を決めた27日に取材に応じ、「僕らの世代は帝京が甲子園で勝つのが当たり前だった。しばらく(甲子園から)離れてしまいましたけど、今の時代で戦い抜くのは、やはり違う難しさがあると思います。低反発バットになったり時代が変わる中で、よく頑張っているなと思います。東京高校との準決勝も良い試合をして、僕らOB楽しませてもらっています。決勝の相手は僕らの時代からライバルと言われていた関東第一ですし、今までやって来たことを信じて頑張って欲しいですね」と話していたが、惜しくも母校の聖地帰還はならなかった。
山﨑自身は2008年に帝京高校に入学し、09年夏、10年春に聖地の黒土を踏んでいる。「僕、帝京単願1本だったんですよ。もう母ちゃん(不安で)泣いてましたけどね(笑)。でも小学校ぐらいから帝京で甲子園に出たい、帝京のバッグを背負ってユニフォーム着て絶対にプレイするんだって夢を持ち始めて。そこからはずっと帝京しか見ていなかったし、タテジマに誇りを持ってみんな戦っているので。東京代表になってまた甲子園で勝つ夢を見させてもらいたいなと、影ながら応援しています」。
前田前監督に感謝
山﨑の在学時は歴代5位タイの甲子園通算51勝を挙げた前田三夫氏が監督だった。
「前田さんには孫のように厳しく接してもらいました。色々な選手がいる中で、ずっと世話を焼いてくれて、 見てくれているような先生だったので。監督でもあり、お父さんのような部分もあって、信頼しきっていました。夏に1番をつける前の選抜はすぐに負けてしまって、その後の春大会もすぐ負けちゃったんですよ。それで、これじゃダメだと言って3年生がベンチメンバーを外れたり、3年生がマシンにボールを入れてやっているような世代だったんです。そこで前田監督は僕らに"1日100球投げなさい"って確か言ったと思うんです。僕、ホントに馬鹿の一つ覚えのように『はい』と。バカみたいに100球投げていて。他の選手達は、ちょろまかすじゃないですけどごまかすようなことも結構していて。前田さんはそういう細かなところもちゃんと見てくれていて最後、夏に1番をつけさせていただきました。でも入学した時は1番なんかつけられるような環境じゃないというか、そうそうたるメンバーがいましたし環境も厳しかったんでね。その中で最後エースナンバーをつけて戦わせてもらったのは、前田さんに感謝ですね」と、当時を振り返った。
山﨑は帝京を卒業後に亜細亜大へ進学し、その後14年にDeNAからドラフト1位指名を受け、球界を代表する守護神へと成長していく。当時から"プロに行きたい"という強い想いがあり、高校3年時にはプロ志望届を提出している。
「プロを目指すと言った時も、前田さんからはっきりと"お前、やめとけ"って言われたんです。なんてこと言うんだ、と思ったんですけど、でも今思うとそれって僕に対する愛だったのかなって。万が一、あの頃プロに行っていたら、もう多分グラウンドには立っていないと思ってますし、思い切って背中を押されるような実力はなかったってことですよね。それを判断してくれて、僕のためを思ってお前やめとけって言ったのかなと。本当に愛があるんだなって思いましたし、前田監督の目は間違っていなかったなと僕自身も感じているので、頭が上がらない思いでいっぱいですね。僕の家庭のこともあって、お母さんとも何度も顔合わせて"厳しく言いますから"ってずっと言われていて。我が子のように接してもらったので凄く感謝しています」と恩師への思いを口にした。
今回、帝京は13年ぶりの甲子園帰還とはならなかったが、6試合で47得点と強打帝京の復活を印象づけた。再び聖地の土を踏む日も、決して遠くはない。
(取材=ニッポン放送アナウンサー・大泉健斗)