リッキー・ヘンダーソン氏

 先週末に入ってきた元メジャーリーガー、リッキー・ヘンダーソンの訃報。65歳という年齢を見て2度驚かされた。

 日本ではほとんど見かけない左投右打ちだったヘンダーソン。メジャーでデビューしたのは1979年。20歳の時だった。

 1年目は89試合に出場して、打率.274、1本塁打。非力ながら33盗塁をマークし、ぶっちぎりのア・リーグ西地区最下位に終わったアスレチックスにとって希望の星となった。

 ブレイクしたのは翌年。158試合とほぼフル出場を果たしたヘンダーソンは、打率.303、9本塁打とパワーの面でも進化を見せた。そして盗塁数をちょうど大台100個にのせ、盗塁王のタイトルを獲得。その後、39歳で迎えた1998年シーズンまでに合計12度も盗塁王に輝いている。

 ヘンダーソンを語る上で欠かせない“盗塁”の二文字。4年目の1982年に記録した「130」は今でもメジャーのシーズン最多盗塁に君臨している。もちろん通算「1406」も史上最多で、今後も破られることはないだろう。

 そんなヘンダーソンが「メジャー史上最強の1番打者」と呼ばれた理由の一つが、単にスピードだけの選手ではなかったことだ。

 シーズン30本塁打は一度もなかったが、1986年と90年に自己最多となる28本塁打を記録。25年のメジャー生活で、通算297本塁打を放った。

 日本ではあまりなじみがない指標だが、打者のパワーとスピードのバランスの良さを示す「PSN(Power Speed Number)」というものがある。今季は大谷翔平(ドジャース)が、ロナルド・アクーニャJr.(ブレーブス)が前年にマークしたシーズン記録を更新したことでも注目された指標でもある。

 ヘンダーソンの通算PSNは、バリー・ボンズに次いで歴代2位。3位以下のウィリー・メイズやアレックス・ロドリゲス、ボビー・ボンズなど名だたる選手たちを上回っていることからもその偉大さが分かるだろう。

 選手として超一流だったヘンダーソンだが、ファンやチームメートを最も惹きつけたのはその真面目で温厚な人柄だ。プレーでは全力疾走を怠らず、盗塁の際のヘッドスライディングは代名詞だった。アスレチックスをはじめ9球団を渡り歩いたが、ベンチ内では常に“いい空気”が漂っていた。

 “リッキー・ヘンダーソンは信じられないほど才能のある選手だったが、それ以上に素晴らしい人間だった。”(ホセ・カンセコ)

 “彼はいつも冗談を言って私を笑わせてくれた。フィールドですべてを成し遂げた最高の選手の一人でもあった。”(フランク・トーマス)

 “チームメートとしてあなたの後ろを打つのは夢のようだったが、対戦相手の捕手としては悪夢だった。”(マイク・ピアザ)

 “彼と一緒にプレーできたことを誇りに思う。彼は私が一緒にプレーした中で最高の選手だった。”(デニス・エカーズリー)

 70年代から2000年代にかけてヘンダーソンと共にプレーした選手は数知れず。Xにポストされた彼らの追悼文を見るだけで、レジェンドの人となりが分かるだろう。

 太く、長く、そして何より“速かった”ヘンダーソンの現役時代。多くの元チームメートやファンが彼への思いを巡らせた週末となったはずだ。

文=八木遊(やぎ・ゆう)

【八木遊・プロフィール】
1976年、和歌山県で生まれる。地元の高校を卒業後、野茂英雄と同じ1995年に渡米。ヤンキース全盛期をアメリカで過ごした。米国で大学を卒業後、某スポーツデータ会社に就職。プロ野球、MLB、NFLの業務などに携わる。

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