◆ 白球つれづれ2025・第52回
年の瀬も押し迫った12月23日、ゴルフ界のスーパースターで、偉大なレジェンド、尾崎将司さんがS状結腸がんのため亡くなった。享年78。
尾崎さんの愛称は「ジャンボ」。毎年この時期はジャンボ宝くじのCMが流れる。まさに「ジャンボ、ジャンボ」の歌声に送られて旅立っていった。
世界ゴルフ殿堂に名を刻まれるジャンボ。アスリートとしての出発点が野球にあるのは有名だ。
1964年、徳島・海南高校(現海部)のエースとして春の甲子園・センバツ大会で優勝。尾崎将司(当時は正司)の名は一躍全国区になる。
将来を嘱望されて翌65年に西鉄ライオンズ(現西武)に入団するが、わずか3年後には退団している。
入団から2年間は投手として20試合に登板するが0勝1敗、防御率4.79。3年目には外野手に転向も、46打数2安打、打率は.043と数字も残せないまま球界を去った。
当時を知る関係者によれば、野球よりゴルフに関心を持ち出したのは入団2年目の頃だったと言う。最大の因は同期入団でもある池永正明投手の存在だった。
池永と言えば、今でも野球ファンの間で語り継がれる伝説のエースだ。
山口・下関商高では2年の春に全国優勝、夏も準優勝した怪腕。ジャンボと同じ65年に西鉄に入団すると、ルーキーイヤーから20勝をマークして新人王。翌年からも白星を積み上げて入団5年で99勝を記録する。1年に約20勝を5年連続だから、今では考えられない偉業だ。
片や大エースに、こちらは一軍の活躍も出来ないままの未完の大器。それがプロゴルファー転向への決め手になった。
「池永に野球では負けたけれど、違う世界であいつを追い抜く」。
退団に際して、尾崎が放った言葉だった。
ここから、話はいささか脱線する。
ジャンボと同じくプロのレベルの高さに絶望感を味わった選手が68年にドラフト1位で入団した東尾修だった。池永や田中勉と言ったエースたちの投球を目の当たりにして自信喪失。1年目のオフには野手転向を申し入れる。
ところが数年後の69年に球界を揺るがす「黒い霧事件」が起こり、西鉄の池永や与田順欣投手らが永久追放。(池永は2005年に処分取り消し)チームは壊滅的出直しを迫られる。
手薄となった先発ローテーションに加わった東尾は連戦連敗ながら、次第に投球術を磨き、やがて200勝投手まで駆け上がっていった。
ジャンボの入団した直後にドラフト会議が発足する。もし、1年早くドラフトがあれば、もし「黒い霧事件」の後までプレーしていれば野球人・尾崎将司はどんなドラマを生んでいたのだろうか?
野球からゴルフに傾倒していく当時のエピソードを日刊スポーツの町野直人記者がジャンボの死亡記事の中でこう記している。
「当時の打撃コーチだった花井悠さんは、ジャンボさんのバットケースの中にはバットではなく、アイアンが入っていたと言う」
その後のゴルフでの活躍は言うまでもない。JPGA通算94勝。賞金王12回の偉業だけでなく、ダボダボズボンに、ど派手なセーター姿はゴルフ場の景色まで変えた。
ゴルフ界のスーパースターになっても、野球への思いは消えなかったのだろう。2001年からプロ野球のOBらが集まるマスターズリーグが始まると「福岡ドンタクズ」の一員として背番号22をつけてプレーしている。
ゴルフにニュースターの石川遼が誕生すると、指導に当たったジャンボが最初に課したのはピッチング練習だったと言う。
投手出身のゴルファーは手首の使い方が上手いと言われる。野球で鍛えた強靭な足腰は300ヤード越えの飛距離を生み、繊細な小技も投手譲りのものだとしたら、野球プラスゴルフの最高傑作がジャンボ尾崎そのものなのだ。
終生、敬愛してやまない長嶋茂雄さんが亡くなり、サッカー界のキング・釜本邦茂さんもいなくなった。昭和100年の年にスポーツ界のレジェンドが相次いでこの世を去った。ここに昭和は終わったと言う人もいる。
だが、常に時代は代わり、スポーツ界も新たなスターを作り出して来た。
101年目の昭和。ジャンボ二世の誕生を期待したい。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)