栗山英樹チーフ・ベースボール・オフィサー

◆ 白球つれづれ2026・第3回

 今月15日、本年度の野球殿堂入りに日本ハムCBO(チーフ・ベースボール・オフィサー)である栗山英樹氏が選出された。

 栗山氏と言えば、日本ハム監督として二度のリーグ優勝と一度の日本一に導いた知将で、二刀流・大谷翔平選手(現ドジャース)の育ての親。23年のWBC世界一では日本代表監督として偉業を成し遂げた。

 野球殿堂には、競技者表彰として「プレーヤーズ部門」と「エキスパート部門」があり、他に審判やアマチュアを対象にした特別表彰と三つの部門から、それぞれ記者投票で有効得票を得た者だけが選出される。栗山氏は、監督やコーチ、または選手引退後21年以上経過した人が対象となる「エキスパート部門」で選ばれたわけだ。

 直近10年のエキスパート表彰者を見ても、星野仙一、原辰徳、田淵幸一、ランディー・バースに掛布雅之氏ら錚々たる顔ぶれが並ぶ。

 彼らが現役時代に多くの金字塔を打ち立てたのに対して、栗山氏はテスト生上がりのドラフト外でヤクルトに入団。その後もめまいや立ちくらみを引き起こすメニエール病に悩まされ7年間で現役を引退、そんな底辺から這い上がった苦労人だ。

「こんな私が殿堂に入る。私を信じてくれた人たちの思いが考えられないことを起こしてくれた」

 翌16日に『スポーツニッポン』紙に掲載された栗山氏の独占手記の一文である。

 奇跡に近い立身出世伝。“野球人”栗山英樹を振り返る時、現役を引退した1991年から日本ハムの監督に就任するまでの22年間を忘れてはならない。

 元々、野球への情熱があり、勉強家でもあった栗山氏は、ほどなくテレビ朝日系列のスポーツキャスターとして取材活動に励むかたわら、大学に通って運動学や、スポーツメディア論を学びだす。

 やがて白鴎大学の助教授から教授として教壇に立つ。今でこそ工藤公康元ソフトバンク監督や桑田真澄前巨人二軍監督らが、大学に通って学ぶのも珍しくなくなったが、まさに新たな指導者の道筋をつけた先駆者である。

 現役時代の実績がないからこそ、他者に教えを請う。大学で若者たちと触れ合う中で人心掌握の術を知る。読書で歴史を学び、兵法まで読み解く。

 この頃、スポニチで連載「熱中先生」を開始すると、毎年暮れに編集局にあいさつにやって来た。必ず手には「コージーコーナー」のシュークリームを100個近く携えた。普通の評論家なら、一緒に写真に納まるか、サイン色紙にペンを走らせるくらいだろう。だが、こんな所でも栗山氏は細やかな心遣いを出来る人だった。

 監督の栗山は、選手の名前を呼ぶとき、必ず下の名前を呼んだ。大谷なら「翔平」、清宮なら「幸太郎」といった具合だ。これも選手との距離感を大事にする操縦術の一環だ。

 入団時から将来のメジャー挑戦を既定路線としていた大谷には、その可能性を信じるからこそ、「この程度は出来て当たり前」、「もっともっとやれる」と一切の妥協を許さなかった。今や世界の至宝を育て上げた手腕はやはり賞賛に値する。

 昨年10月1日。栗山の姿は名古屋のバンテリンドームにあった。

「翔」は「翔」でも中田翔選手の現役引退セレモニーに稲葉篤紀日本ハム二軍監督と共に花束贈呈に駆けつけた。

 ハムの不動の四番だった中田は21年のシーズン中にチームメイトへの暴行事件が発覚、チームは無期限出場停止の処分を発表した。

 ところがそれからわずか10日後に巨人へのトレードが発表される。一説には栗山監督が親交のある巨人・原辰徳監督に頼んで中田の野球生命に関わるピンチを救ったと言われる。その後、中日に移って現役生活の幕を閉じた中田の目に涙があふれたのは言うまでもない。こうした細やかな心遣いが出来るから、栗山氏のもとにはまた、人が集まる。

 実績主義が幅を効かす野球界にあって、別路線から高みに登ったニューリーダー。時代はこんなボスを望んでいるのかも知れない。

文=荒川和夫(あらかわ・かずお)

この記事を書いたのは

荒川和夫

1975年スポーツニッポン新聞社入社。野球担当として巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)等を歴任。その後運動部長、編集局長、広告局長等を経て現在はスポーツライターとして活動中

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