侍ジャパンの歴代4番打者
あの頃、野球日本代表チームはまだ侍ジャパンではなく、王ジャパンと呼ばれていた。
11年前の2006年に開催された第1回WBC、王貞治監督率いる代表チームは見事優勝。当時の様子を報じる雑誌を見てみると、そのほとんどでイチローが表紙を飾っている。まさに王ジャパンであり、イチローのチーム。そんな中、4番を打ったのは松中信彦だった。主軸打者ながら繋ぎ役に徹し「優勝の影の立役者」とも言われた背番号3の活躍。今回は松中を始めとしたWBC歴代侍ジャパン4番打者を大会直前の前年シーズン成績とともに振り返ってみよう。
第1回大会の4番は平成唯一の三冠王
05年 132試 率.315 46本 121点 OPS.1,075
06年WBC 8試 率.433 0本 2点 OPS.1,095
04年は平成唯一の三冠王獲得。05年も46本塁打、121打点と凄まじい成績で2年連続本塁打王、3年連続打点王の二冠とまさに球界最強スラッガーとして絶頂期にあった松中。
大会直前の06年1月には日本球界初の7年総額45億円の大型契約を結んだ。ソフトバンクでともに戦う王監督からの信頼も厚く、もちろんWBCでも出場辞退の松井秀喜(当時ヤンキース)に代わり、日本の4番を託される。
パ・リーグのプレーオフで見せた短期決戦の勝負弱さが不安視されたが、大会では全試合4番打者として出場し、チーム最多の13安打を放ち、打率.433を記録。見事、大役を勤め上げた。
帰国後のシーズンでは打率.324で首位打者を獲得するも、前年から30本近く激減の19本塁打に終わる。その後、度重なる故障にも苦しみ全盛期の輝きが戻ることはなかった。15年限りで現役引退。
第2回大会は前年の本塁打王
村田修一(当時28歳 / 横浜)
08年 132試 率.323 46本 114点 OPS.1,062
09年WBC 7試 率.320 2本 7点 OPS.939
前年の08年はキャリアハイの46本塁打で2年連続の本塁打王を獲得。09年WBCでは名実ともに松中に代わる日本の主砲として代表選出。
原監督からその奇抜な髪型を突っ込まれる一幕もあったが、大会ではチーム最多の2本塁打、7打点とその役割を果たした。高代延博内野守備走塁コーチとの練習で三塁守備が向上するという思わぬ副産物もあったが、第2ラウンドの韓国戦中に右太もも裏肉離れで退場。準決勝アメリカ戦、決勝韓国戦は欠場した。ペナント開幕前に全治6週間の痛い離脱となり、シーズンでもこの怪我に悩まされ、前年より20本以上少ない25本塁打に終わった。
大会から2年後の11年オフ、FA権を行使し再び原監督と同じユニフォームを着ることになるが、WBC後の09年以降は30本塁打を一度もクリアできていない。
第3回大会は巨人の主砲が4番
阿部慎之助(当時34歳 / 巨人)
12年 132試 率.340 27本 104点 OPS.994
13年WBC 7試合 率.261 2本 7点 OPS.857
五冠達成の原巨人の大黒柱として12年は首位打者、打点王、最高出塁率、MVPとタイトルを総なめにした頼れる球団史上最強キャッチャー。
山本代表監督も阿部のグアム自主トレをわざわざ訪問し、「4番捕手でキャプテン」の座を託した。しかし、大会直前に右ひざの古傷が再発するアクシデントに見舞われ、初戦のブラジル戦は代打出場。2戦目の中国戦からマスクを被り、オランダ戦の1イニング2本塁打で完全復活したかに思えたが、チームは準決勝のプエルトリコ戦で力尽きた。
阿部はペナントでも32本塁打を放ち巨人連覇に貢献するが、翌14年から打率2割4分台と極度の打撃不振に。近年は満身創痍で一塁転向を余儀なくされている。
こうして振り返ると、侍ジャパンの4番打者は皆、キャリアのピーク時にWBCを迎え、それを境に大きく成績を落としていることが分かる。しかし、今大会で4番を打つことが予想される筒香嘉智はまだ25歳。全盛期はまだまだこれからだ。WBCでの活躍はもちろん、その後のシーズンでも「侍ジャパン4番打者のジンクス」を破ることを期待したい。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)