対巨人戦最高勝率を誇った選手時代
1月4日、楽天の星野仙一球団副会長が逝去した。現役時代から揺るがぬ野球愛、厚い人望、エネルギッシュな言動で日本球界に多大な影響を与え続けてきた“闘将”。その早過ぎる死に、球界関係者や野球ファンは一様に衝撃を受けた。
星野仙一とは、一体どんな野球人だったのか。その選手・監督成績から“闘将伝説”の一端を振り返ってみる。
選手時代は中日一筋14年。通算成績は500試合で146勝121敗34セーブ、防御率3.60だ。大台の200勝には到達していないが、それはチーム事情により先発中心で起用されたシーズンがわずか5年ほどだったことにもよる。登板500試合のうち、先発数は243と半分に満たない。
なんと言っても巨人キラーとして名を馳せた星野氏。V9時代を含む最強巨人を相手に通算35勝(31敗)を挙げている。対巨人戦で30勝以上をマークし、かつ勝ち越しているのは星野氏のほか、平松政次(元大洋/51勝47敗、勝率.520)、川口和久(元広島・巨人/33勝31敗、勝率.516)だけであり、勝率では星野氏の.530が最高である。
個人タイトルを獲得したのは2度。1974年に15勝9敗10セーブでセ・リーグの初代セーブ王。1975年に17勝5敗4セーブ、勝率.773で最高勝率のタイトルに輝いている。特に1974年は自己最多タイ49試合に登板するなど、先発に抑えにフル回転。巨人のV10を阻み、中日を20年ぶり2度目のリーグ優勝に導いて沢村賞も受賞している。
“6度目の正直”で巨人出身監督を破り日本一に
オールドファン以外には、監督としての星野氏のほうが馴染みがあるだろう。通算成績は17年間で2277試合を戦い、1181勝1043敗53分。勝率は.531。通算1181勝は、監督通算勝利数歴代10位だ。
リーグ優勝は中日時代に2度、阪神、楽天時代にそれぞれ1度の計4度。楽天時代にはチームを創設初の日本一へと導き、自身としても初めての日本シリーズ制覇を成し遂げた。
監督として3球団でリーグ優勝を果たしたのは、三原脩(元巨人/巨人、西鉄、大洋で優勝)、西本幸雄(元毎日/大毎、阪急、近鉄で優勝)、そして星野氏のわずか3人という偉業である。
星野氏と巨人との縁は監督時代も続く。阪神を率いていた2003年10月7日、甲子園で行われたこの年最後の伝統の一戦では、星野氏自らの提案で第一次政権時代の巨人・原辰徳監督(現巨人特別顧問)の退任セレモニーを行った。
花束を手に、無念の退任を余儀なくされた敵将を力強く抱き寄せメッセージを贈る。「くじけるなよ、必ず帰ってこい」。巨人ファンのみならず阪神ファンからも原コールが巻き起こるなか、星野氏の胸で懸命に涙をこらえる原監督の姿に心震えた野球ファンは数知れないだろう。
そして、楽天を初のリーグV、日本一に導いた2013年に日本シリーズで対戦したのは、奇しくも第二次政権時代の原が率いる巨人であった。星野氏が選手・監督時代を通じて6度進出した日本シリーズでの対戦相手の監督は、なんといずれも巨人出身。選手時代は1974年のロッテ(金田正一監督)、1982年の西武(広岡達朗監督)、監督時代は1988年の西武(森祇晶監督)、1999年と2003年のダイエー(王貞治監督)、そして2013年の巨人(原辰徳監督)だ。
原監督率いる巨人を破るまでの5度の挑戦ではいずれも敗退。2013年の日本一は、3度目の正直ならぬ“6度目の正直”だった。生涯を通じて「打倒・巨人」に燃え、66歳で悲願を達成した男は、万感の思いを胸に宙を舞ったことだろう。
文=清家茂樹(せいけ・しげき)