白球つれづれ~特別篇・星野仙一
激情、友情、情熱、愛情。
現役時代は「燃える男」として、監督時代は「闘将」として鳴らした星野仙一氏が亡くなったのは1月4日のことだった。一昨年にすい臓がんを宣告されながら、ごく親しい近親者などを除いて病状を知らせることなく天国に旅立った。享年70歳。球界のみならず全国に走った衝撃は2週間近くたった今も広がり続けている。
スポーツ紙の記者として星野を取材したのは40年ほど前にさかのぼる。同じ明大出身ということもあり、目をかけてもらった。ナゴヤ球場に足繁く通ったのは、こちらが遊軍記者、星野が監督になってから。当時の記者席とベンチの距離は短く、負けゲームになると怒声が飛び、何かを蹴り上げる音まで聞こえてくる。試合後は怒り心頭のまま監督室に直行してしまうので取材にならない。そのたびに監督付き広報がオロオロすることもしばしばだった。
それでいて、遠征先では記者たちとの懇談の場を必ず設けて、気配り、心配りも欠かさない。人間・星野のエピソードはありとあらゆるメディアを通じて報じられているので言うまでもない。ここでは2008年の北京五輪、野球日本代表監督の時に見せた「情の人」の側面に触れてみたい。
北京五輪と星野の「情」
中日、阪神で優勝監督となり、今度は世界一が目標となった五輪チーム。この北京から代表チームは初めて全員プロで挑むことになった。「目標はナンバーワン、金メダルしか要らない」と星野は自ら重い十字架を背負った。腹心となるコーチ陣には六大学時代からの盟友である田淵幸一を打撃総合、山本浩二を守備走塁担当に起用した(投手コーチは大野豊)。
大親友との世界一獲りの夢もあっただろう。当時、この3人でCMにも起用されて話題と人気を呼んだ。だが、大会の幕が開けると不安な部分も表面化する。誰もが監督のような重厚シフト。三塁コーチャーを任された山本だって、経験がない。走者の本塁へのゴー、ストップ1つとっても専門職の判断が瞬時に求められる。五輪のベンチ入りコーチ枠は3人と決まっているため替えは利かない。こんなリスクをわかったうえで判断したのは、星野の「情」の部分ではなかったか?
いざ本戦。準決勝までは順調に駒を進めた星野ジャパンは準決勝で韓国に敗れ、3位決定戦でも米国に苦杯をなめて野望はついえた。この戦いを振り返ると、キーとなる場面は左翼に起用したG.G.佐藤(本名・佐藤隆彦、当時・西武)の2試合連続の落球だった。
韓国戦では4回に左前打をトンネルすると、8回に左中間の飛球をグラブに当てて落球。敗戦の責を一人で背負った佐藤は、続く米国戦を前に「(守備の)自信がないので使わないでください」と申し出る決意を固めていたが、先発メンバー表には再び佐藤の名前が。この試合でも3回の遊撃後方の飛球を落球してしまった。
なぜ、星野は佐藤を使い続けたのか?と問われると「ここで外したら選手を潰す」と語っている。若き指揮官時代、少しでも気の抜けたプレーや覇気のない選手には手が出た。ボコボコに殴られた選手は何人もいた。しかし、翌日には必ず使い続けた。これが星野流の激情であり、愛情だった。
教え子たちへの期待
もしこの時、星野ジャパンが金メダルに輝いていたら日本球界に大きな地殻変動が起きていたかもしれない。ここからは私見だが、野球界のリーダーは未だに長嶋茂雄と王貞治だ。2人の実績と人格は文句なしだが、いずれも高齢で世代交代が望まれる。次なる候補は星野、山本、田淵の六大学トリオだった。しかし、北京の敗戦で彼らが「ポストON」の座に就くことはなくなった。
山本は人格円満な調整型、田淵はあるときから星野の番頭役に転じる。球界の顔として発信出来てリーダーシップをとれる唯一の男が星野だった。古田敦也や原辰徳らが将来の球界リーダーとして期待されるが、まだまだ時間はかかるだろう。
ある球界関係者は、星野がコミッショナーの野望を抱いていたはず、と語る。昨年暮れの野球殿堂入りパーティーでも、これからの野球界の発展に心を寄せていた。接した誰もが厳しさの裏にある優しさを感じた仙さん。今度は教え子たちがその「情」に報いる時だ。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)