白球つれづれ2019~第19回・時代を彩った名コンビ~
西武の山川穂高が12日の日本ハム戦で日本人最速の100号本塁打を記録した。過去の記録は1987年に秋山幸二が打ちたてた351試合だが、山川はそれより30試合早い321試合での到達だ。大学(富士大)卒の山川は6年目の27歳。プロ入り後2年は成績を残せず、ようやく一軍で認められはじめたのが16年から。真の大ブレークは昨年の47本塁打とMVP。わずか3年ちょっとでの大台突破は見事な成長曲線である。
ヤクルトの村上宗隆は、同日の巨人戦で球団史上最速の19歳3カ月で4番打者という記録を作った。10代の4番記録は1987年8月の清原和博以来32年ぶりだが、清原は前年のルーキーイヤーにも4試合、4番を務めている。上には上がいるものだ。
期せずして、名前が出てきた秋山と清原。1980年代から90年代にかけて西武の黄金期を築いた主力が「AK砲」として各球団を震え上がらせた時代にタイムスリップしてみたい。
憧れのバック宙も
共に球史に名を残した両雄だが、プロ入り後の歩んだ道は好対照と言える。先に入団したのは秋山。1981年のドラフト外、背番号は「71」からのスタートだった。と言ってもドラフトにかからなかったのは大学進学説が有力だったため。当時の球団管理部長で「剛腕の寝業師」と呼ばれた根本陸夫が暗躍した出来レースというやっかみの声も他球団から聞こえた。
秋山の成長は米国への野球留学が大きい。1Aのサンノゼ・ビーズと業務契約を結ぶ西武は当時、毎年のように有望選手を派遣して心身を鍛えてきた。10時間を超すバスの移動、ハンバーガーひとつの昼食。こうした環境に身を置くことで技術以外のハングリー精神も叩き込まれた。
秋山の特徴は、走攻守どれをとっても規格外のスピードスター。今でこそ山田哲人(ヤクルト)や柳田悠岐(ソフトバンク)らで認知度の上がった「トリプルスリー」を89年に記録、史上初の40本塁打40盗塁まであと一歩に迫ったレジェンドである。
今年、ソフトバンクの明石健志がサヨナラホームランを放った際に「バック宙」でホームインしたが、これの元祖も秋山。1986年広島との日本シリーズで並外れた身体能力を証明した。それから30年以上たっても「あの姿が憧れでした」と明石が再現するのだから、記録と記憶に残るスターと言えるだろう。
規格外の高卒ドライチ
秋山が叩き上げなら、清原はもちろん怪物の名を欲しいままにしたエリートだ。PL学園時代の球歴は説明不要。天性のホームランバッターはプロの壁などないかのようにプロデビューから次々と最年少記録を塗り替えていった。高卒1年目31本、2年目で29本の本塁打記録は、今後も破られないであろうお化けのような数字だ。
100号も、200号も史上最年少で通過した清原の生涯本塁打は525本。しかも、本塁打王ばかりか打率、打点の主要打撃タイトルを一度も手にすることなく現役を退いた無冠の帝王だ。早熟とは思わない。晩年の相次ぐ故障と薬物依存は自己管理の甘さが生んだ代償と見るべきだろう。
両雄が輝いていた頃、西武では担当記者が打撃練習の手伝いをすることが許されていた。センターで打球を追っていると秋山と清原のそれは明らかに異質の物だった。通常の打者の打球軌道から上空でもう一段、加速していくのだ。これが長距離砲のスペシャルな打球。だから西武は無敵だった。
秋山はソフトバンクの監督から離れて、地元・福岡を中心に評論家活動を続けている。一方の清原は薬物依存からの更生を目指して、まだまだ苦闘が続く。だが、球界に新たな記録が生まれるたびに「AK」の名が語り継がれていく。王貞治と長嶋茂雄のON砲に、秋山と清原のAK砲。さて、この先どんな名コンビが生まれていくのか? 令和の怪物たちに期待しよう。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)