『男たちの挽歌』第2幕:小笠原道大
プロ野球は永久に続く連続ドラマだ。毎年ニュースターが現れ、元スターが去って行く。村上宗隆や近本光司のような煌めく才能と入れ替わるように、ユニフォームを脱ぐベテランたち。グラウンド上の無数の出会いと別れ。この時期、現役引退のニュースを聞く度に、「そう言えばあの選手が辞めたのはいつだっただろうか?」と考える。
全盛期の輝きや華やかな引退会見は記憶にある。けど、あれが何年前で、どういう最終成績で引退したのかまでは覚えてない。そんな「最後の1年」を振り返る本連載、第2回は小笠原道大である。
巨人再建の一翼を担ったサムライ
今季5年ぶりのリーグ優勝を決めた巨人の試合で、背番号8の丸佳浩を見ながら何度もそう思った。
広島からFA移籍の丸は不動の「3番センター」で若いチームを牽引したが、あの年のガッツ小笠原もFAで06年日本一の日本ハムから移籍してくると「3番サード」に定着。前年に本塁打王と打点王を獲得した当時のNPB最強の呼び声も高いスラッガーは、いきなり打率3割・30本塁打をクリアする文句なしの働きで原巨人5年ぶりのリーグVの原動力に。セ・パ両リーグを股にかけて2年連続MVPに輝いた。
北海道からやって来たサムライは、低迷期の巨人を救ったのである。その小笠原とアレックス・ラミレスが再建のきっかけを作り、キャッチャー阿部慎之助が土台を支えたチームで、デビューしたのが現キャプテンの坂本勇人だった。
ちなみに同じ頃、巨人入りを考えていたのが小笠原と同じ73年生まれ(誕生日は3日違い)のイチローだ。全盛期バリバリのグラドル安田美沙子がビキニ姿で表紙を飾る雑誌『週刊プレイボーイ』2008年1月7.14日号には、『イチロー消えた「巨人入団」の全真相!』とド派手な見出しがついた独占インタビューが掲載されている。
07年オフ、16年間に渡るプロ野球人生で初めてFA権を取得した34歳の背番号51は、NPB復帰を真剣に検討。最近、日本球界ではみんながメジャーに軽い気持ちで行きたがる流れに、だったら自分は日本に戻るべきなんじゃないかという使命感が芽生える。でも、なぜ古巣オリックスでも地元中日でもなく巨人に?
「いくらカネを使っても、あちこちのチームから選手を集めても、強い巨人を作るんだということに徹する。東京ジャイアンツには、そういう存在でいてほしいんです。でも、やっぱりそれを嫌いな人がたくさんいて、この何年か、そういう振る舞いがちょっと揺らいでいる感じがします。世の中の圧力にキングが揺らいでいる感じ。結局はジャイアンツに魅力がないと日本の野球は盛り上がらないでしょうし」
だから、自分が日本に戻るとしたら、ボロボロになった巨人を再生っていうのが一番いい。そうすることで日本球界の流れを変えることができるから。実際に代理人は宮崎の巨人キャンプの環境も確認にまで行っている。背番号51は本気だったのである。結局、シアトル残留を選び、東京ドームで「3番イチロー、4番ラミレス、5番小笠原」の史上最強クリーンナップが実現することはなかった。
40歳で迎えた転機
さて、その後も4年連続で3割30本クリアで原巨人V3に貢献したガッツだが、通算2000安打を達成した11年に度重なる故障や飛ばない統一球にも苦しみ、急激に成績を落とす。12年には本塁打なしでNPB史上最大の3億6000万円減額の契約更改がニュースに。プロ17年目で初の開幕二軍と崖っぷちで迎えた13年は、朝7時からジャイアンツ球場入りして午後のイースタンの試合に備える姿も見られた。
交流戦の古巣・日本ハム戦で2年ぶりの一発となる自身3本目のサヨナラアーチを放つが、わずか22試合の出場に終わり、シーズン後に2度目のFA宣言。40歳にして、中日ドラゴンズへと移籍する。
何の仕事でも40歳の転職にはパワーがいる。もう失敗しても、いい経験になったなんて笑って許してもらえる年齢じゃないから。あとがないベテランに求められるのは「未来」じゃなく「今」だ。いつの時代も、おじさんは切実なのである。
小笠原が日本ハムのルーキー時代にキャッチボール相手を務めた落合博満GMから誘われた新天地で、背番号はそのオレ竜落合が現役時代に4球団でつけていた「3」と「6」を合わせた「36」に決定。しかも自著『ガッツのフルスイング』(KKロングセラーズ)によると、社会人野球のNTT関東に所属していた95年のドラフト会議では「PL学園の福留孝介選手との兼ね合いで、もしかしたら中日3位指名があるかもしれない」という話もあったという(この年の指名は見送られ、翌96年ドラフト3位で日本ハム入団)。そんないくつもの縁が繋いだ名古屋の地で、年俸3000万円での再スタートを切る。
移籍1年目の14年は代打稼業に活路を見出し、7月には広島の前田健太から中前打を放ち、球団タイの代打6打数連続安打を記録。このシーズンは代打での9打席連続出塁も話題になり、81試合(99打席)で打率.301をマーク。そして、小笠原道大、最後の1年へ。
引退試合は古巣との一戦
新たな仕事に黙々と取り組むベテランは、翌15年も4月5日の広島戦でサヨナラ安打を放つなど3割前後の打率を残すが、夏場には左足を痛め二軍落ちも経験し、世代交代が急務な高齢化が進んだチーム事情(和田一浩や谷繁元信兼任監督も同年に選手引退)もあり、9月17日に現役引退会見を開く。
「ファイターズはプロ野球の中のことを勉強させていただいた10年間。ジャイアンツの7年間は10年間勉強してきた、成長させてくれたことを思い切り皆に見せるという7年間。最後のドラゴンズでの2年間は、わがままを通してもらった2年間」という言葉を残し、9月21日には本拠地ナゴヤドームでの引退試合へ。
3万7786人の大観衆が詰めかけた古巣巨人戦に「5番ファースト」で先発出場すると3打数1安打。第2打席に放った通算2120安打目は遊撃への内野安打である。プロ初ヒットも内野安打で、最後の一本も内野安打。これぞプロ19年間、愚直に貫き通したプレースタイルだ。高校通算本塁打0本。非力な劣等感を吹き飛ばすには、フルスイングと全力疾走しかなかった。
7回一死走者なしで迎えた最終打席では、スコット・マシソンの155キロの直球をとらえるも左直。試合後、マウンド付近で待つ両チームの選手たちから胴上げされ、グラウンドに降りた泣きじゃくる愛娘を抱き寄せながらも小笠原は最後まで笑っていた。
場内一周で、レフトスタンド前に差し掛かると巨人応援団が在籍時の応援歌を惜別の演奏で見送り。通算2120安打、378本塁打、生涯打率.310、両リーグMVP獲得、WBCの日本代表二連覇にも貢献。2000年代にイチロー、松井秀喜、松井稼頭央、中村紀洋と同世代の球界を代表する選手たちは続々と海を渡ったが、日本のファンの前でそのキャリアをまっとうしたラストサムライの最後の1年はこうして終わりを告げた。
『ベースボールマガジン』2018年3月号の「フルスイングの美学」特集において、他の打者のフルスイングとどこが違ったのか? という問いに寡黙な男はこう答えている。
「どこが違うんだろうなあ……。(練習を)やったから。誰よりもやったから。そこかな。いろいろとやっていく中で『これだ』と突き詰めていって、体も出来てきて、フルスイングできるようになったんですよ」
19年は中日の二軍監督を務めたが、去就が注目される竜の背番号18・松坂大輔にプロ初被安打とプロ初被本塁打を浴びさせたのは、日本ハム時代のまだ無名の小笠原だった。そして、あの平成史に残る99年4月7日の松坂デビュー戦で、西武の4番を務めていたのが鈴木健である。
(次回、鈴木健編へと続く)
【小笠原道大 03年・15年打撃成績】
03年(30歳/日本ハム)
128試合:率.360 31本 100点 OPS.1.122
※2年連続の首位打者、初の最高出塁率を獲得
15年(42歳/中日)
53試合:率.294 0本 8点 OPS.726
※引退試合は「5番一塁」で出場、現役最終打席は左直
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)