“隠し玉”ヒストリー【第1話:千賀滉大】
今やNPBを代表する投手になったソフトバンクの千賀滉大。最速161キロを計測した快速球に、代名詞となった「お化けフォーク」はぜひとも生観戦で堪能したい逸品だ。
今季は自己最多の180回1/3を投げ、奪三振もはじめてシーズン200の大台を突破。これは両リーグで見ても唯一で、ダントツの227奪三振を記録して自身初の最多奪三振のタイトルも手中に収めている。
そんな千賀が「育成ドラフト出身」ということは広く知られている。NPBは一軍の試合に出場できる「支配下登録枠」が70人という上限が決まっていて、その枠に入らない、ファームで育成する選手を「育成選手」と呼ぶ。
千賀はプロ2年目の4月に支配下登録されたが、入団時は2010年育成ドラフト4位で指名された育成選手だった。なお、同年の育成ドラフト6位は「甲斐キャノン」でお馴染みの甲斐拓也である。
なぜ、千賀ほどの選手が育成ドラフトで指名されたのか。それは高校時代の千賀が無名校の無名選手であり、スカウトの目に留まりにくかったからだ。
プロへの扉を引き寄せた意外な人物
千賀のプロ入りのキッカケを作ったのは、意外な人物だった。
名古屋のスポーツ店の店主(故人)が、当時ソフトバンクのスカウト部長だった小川一夫(現ソフトバンク二軍監督)に「蒲郡高校にいいピッチャーがいる」と情報提供。その縁で、スカウトが千賀を視察することになったのだという。
千賀が通っていた蒲郡高は、県立高校ながら野球部の専用グラウンドがある。とはいえ、野球部はお世辞にも強豪とは言えなかった。千賀自身の意識も低く、そもそも別の志望校に落ちたため蒲郡高に進学したと本人が語っていたこともある。
しかも、中学時代は軟式野球部の三塁手で、成長痛のためほとんど試合にも出られなかった。高校入学当初は野球を続けるつもりもなく、「ボクシング部かサッカー部に入ろうと思っていた」という。結局、同じ中学の野球部だった先輩から誘われる形で野球部に入部するのだが、もしここで野球をやめていたら日本球界の大きな損失になるところだった。
高校入学直後の転機
高校入学直後、キャッチボールを見た監督から「お前はピッチャーだ」と即投手転向を促された。
すると、当初は120キロしか出なかった球速も、3年間で144キロまで急成長。それでも線は細く、今のような力強さはなし。落ちる変化球もスプリットを投げていたものの、ほとんど落ちず「30球に1球変化すればいいほう」と試合で使える球種ではなかったのだとか。
高校3年の夏は、3回戦で岡崎商に敗退。それでも、大学関係者やプロのスカウトが蒲郡高まで視察に訪れるようになり、千賀はそこで「上でも野球ができるかもしれない」と意欲が芽生えたのだという。
また、最初に千賀に目をつけたNPB球団は、実はソフトバンクではないパ・リーグの他球団だった。だが、その球団は千賀に大学進学を勧めている。千賀をドラフト本指名するほどは評価しておらず、育成選手を積極的に獲得できる球団ではなかったからだ。育成選手を多く確保していたソフトバンクだったからこそ、千賀を指名できたと言える。
プロ入り後の大化けぶりは、周知の通り。こんなことがあるからドラフトはわからないし、夢がある。
文=菊地高弘(きくち・たかひろ)