短期連載:去りゆく勇者たち
秋は野球界にとって別れの季節でもある。自ら現役引退を告げる者、球団から戦力外通告を受ける者。新陳代謝が激しく、弱肉強食が常である勝負の世界では避けて通れない非情の時だ。
彼らはチームに何を残し、あるいは、どんな悔いを残してユニホームを脱いでいくのか? 勇者たちの散り際を追ってみる。
第1回:メッセンジャー(阪神)
「タイガースファン、本当に有難う。チームメート、CS(クライマックスシリーズ)頑張れ!」まさに最後のメッセージとなった。
これに先立つこと2日前の9月29日、メッセンジャーは本拠地・甲子園で最後の先発マウンドに立った。中日・大島洋平との勝負。6球すべてストレートを投じ、最後は空振り三振に料理した。たった一人との出番でも試合後には望外の時間が用意される。ナインの手によって胴上げばかりか、グラウンド一周に、ファンから絶叫の声と別れのテープが乱れ飛ぶ。
ここまで、虎党に愛され、球団から手厚く送り出された助っ人はいない。チームもまた、このメッセンジャーや、今季限りでの退団が決まっている鳥谷敬らとの別れを惜しむようにシーズン最終戦までの6試合で奇跡の6連勝。ポストシーズンへの夢をつないだ。
大和魂を持った助っ人
メッセンジャーが来日したのは10年前の2010年のこと。マーリンズ、ジャイアンツ、マリナーズなど、メジャーの球団を渡り歩くもマイナーとの間を行ったり来たり。そんなときにマリナーズで巡り合ったのが城島健司だった。強打の捕手として海を渡ったものの日本へのUターンを模索している時期に阪神入団が決まり、メッセンジャーにも日本行きを勧めた。運命が大きく変わる出会いだった。
当初は中継ぎ要因だったが、ローテーションに穴が開き、先発転向のチャンスをつかむと、そこからは白星を積み上げてエースの階段を登っていく。2014年には最多勝、さらに最多奪三振のタイトルも2度獲得(2013年と14年)した。猛虎に欠かせぬ右腕となって今季が10年目。ついに外国人選手枠を外れて日本人選手と同等の扱いを受ける権利を手に入れた。通算成績は98勝84敗。記憶にも記録にも残る「日本人選手」となっていた。
外国人選手が日本で活躍するにはいくつかのハードルがある。米国スタイルに固執しないこと、日本人や日本文化を理解すること、グラウンドに立てば日本スタイルの野球を分析、研究することなどだ。
メッセンジャーの場合は、来日直後から寿司に挑戦し、自宅では常に対戦球団のビデオを回すなど研究を怠らなかったという。加えてランニングを欠かさない練習の虫、今では中6日が常識となっている先発の登板間隔も、中4日で志願もする。前監督の金本知憲はこの外国人を、「大和魂を持った語り継がれる選手」と最大級の言葉で評している。
決して優等生だったわけではない。チームメートに辛らつな言葉を浴びせ、ベンチのサインを無視して打席に入り問題を起こしたこともある。それでも野球に取り組む真摯な姿勢があったから、認められ愛された。
理想の引き際
メッセンジャーが引退を表明したのは先月13日。そのわずか2日後に米国から悲報が届いた。
1960年代に村山実らとともに阪神の助っ人エースとして活躍したG・バッキーさんの死去。享年82歳だった。このバッキーこそ阪神で100勝を記録して、メッセンジャーに更新の夢を託した伝説のOB。しかも最近までネット通話で交流を続けて投球術までアドバイスしていたという。エースのDNAは、こうして繋がっていたのだ。
功労者として、球団では引退後のポストを用意したが、メッセンジャーはそれを固辞して米国で家族水入らずの生活を選んだ。それでもある球団関係者は「研究熱心でストイック。いい指導者になれる。ゆくゆくはコーチとして戻ってきてほしい」とラブコールを続ける。惜しまれて去る。理想の引き際を、38歳の「日本人」は手に入れた。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)