「ありがとう」、私のヒーロー:阪神・メッセンジャー
プロ野球の2019年シーズンが閉幕。今年も熱い戦いが繰り広げられたなか、多くの名選手たちがユニフォームを脱ぐ決断を下した。
秋といえば、野球界にとって出会いと別れの季節。球界の明日を担う金の卵たちがドラフト会議で大きな注目を浴びながらプロへの門を叩く一方、チームを去る選手がいることも事実だ。
かつては大きな期待を背にプロの世界へと飛び込んだ選手たちも、いずれはユニフォームを脱ぐことになる。今回は、今季限りで現役引退を決断した選手たちにスポットを当てて、彼らを長く見守ってきた方々にペンを執っていただき、それぞれの思い出とともに引退する選手のキャリアを振り返ってもらった。
文=チャリコ遠藤(スポーツニッポン・阪神担当)
聖地のマウンドで守り続けた「誇り」
沈黙の1分間に一体、どんな光景が蘇ってきたのだろうか。頬を伝った涙は、きっと熱を持っていたはずだ。
9月18日、兵庫県西宮市内のホテルで阪神タイガースのランディ・メッセンジャーが引退会見に臨んだ。冒頭に日本語で「オーケー、サヨナラ!」と発して舞台裏に引き返そうとするなど、和やかな表情で席に就いた助っ人右腕の表情は、ある質問で一変した。
「10年間守り抜いた甲子園のマウンドはどういう場所だったか」
同席した球団通訳が伝える前に「甲子園」という単語を聞いて質問の意味を理解し、何度もうなずいた。ただ、すぐに言葉を発することができない。時間にして68秒。報道陣のカメラのフラッシュ音だけが、けたたましく鳴り響く中で、ずっと下を向いていた顔を、ようやく振り上げると力強い一言を残した。
「means a lot」――。タイガースのエースにとって、聖地のマウンドが「大きく、たくさんの意味を持つ」までになる道のりは、平坦でなかった。決して用意されたのではなく、自力で掴み取った座。だからこそ、背番号54はその場所で誰よりも腕を振り、白星を積み上げることで「誇り」をずっと守ってきた。
偶然にも記者1年目と来日1年目が重なり、番記者としてずっと背番号54を追ってきた。多くの選手がいる中でおそらく、一番質問を投げかけた人物になったと思う。目の前を通り過ぎる時には「アッチイケ」と強烈な体当たりを食らい、夏場になれば「シャワー」だと言って抱きしめられ、汗にまみれた。こんな普段は陽気でジョーク好きな大男だが、ひとたび“戦場”に上がれば、背中で語る大黒柱に変ぼうを遂げた。
誰よりもチームの勝利を願い、エースとしての自負をにじませる。書き手として、原稿につい力が入ってしまうそんなプレーヤーだった。異国の地で身を粉にして歩き続けた「10年の旅」は今、唯一無二のサクセスロードになった。誰もたどることのできない「道」を振り返ると、その生き様と、覚悟の数々が鮮明に蘇ってくる。
2軍からはい上がりエースの座へ
2010年1月、メジャー通算173登板の実績を引っさげ、メッセンジャーは、日本に降り立った。むしろ当時は、同時に来日したメジャー40勝を誇るケーシー・フォッサムの方が注目度は高かった。ポジションもクローザーでなく、あくまでブルペンの一員。開幕メンバー入りしたものの、結果も芳しくなかった。象徴的だったのは、4月15日の敵地での巨人戦。1点リードの4番手で登板すると当時21歳の坂本勇人に左中間スタンドへ飛び込む逆転のグランドスラムを被弾し、皮肉にも6回無失点で降板したフォッサムの白星も消すことになってしまった。
その後も、精彩を欠く投球が続き、4月下旬に不振を理由に2軍降格。期待の新外国人の開幕早々の登録抹消は「中継ぎ失格」を意味していた。しかし、この屈辱が、結果的に成功への扉に手を掛けることになる。ファームで先発転向を打診されたのだ。
“デビュー戦”はプロではなくアマチュアのクラブチーム相手。元メジャーリーガーはそを曲げてもおかしくなかったが「俺はピッチャーだ。バットを持ってる打者がいれば、投げるだけだよ」と口にして2軍本拠地の鳴尾浜球場のマウンドに向かった。「先発でしか生きる道はないから」。当時、ファームの関係者には、そう漏らして地道にはい上がる決意を示していた。
困難にも心が折れないメンタルは幼少期にルーツがある。貧しい家庭に育ち、両親ともどもアルコールにおぼれる時期もあったという。食事はガソリンスタンドが当たり前。ボロボロになったTシャツを着て、長期間着用できるように購入したサイズの大き過ぎるズボンを履いて町を歩いていた。自宅も転々として、多くの時間を過ごしたのはモーテルで「小さかった時は本当に苦労したから」と語っていた。人生のスタート地点から、はい上がるマインドを備えていた男にとって、日本でいきなり味わった挫折も、活力に変える転機として捉えられた。実は、10年間で一度ずつ両親を自身の登板試合にも招待。来日1年目に観戦した父親は、試合後に足を運んだ東京の中華料理店で「すごく良い感じでボールがリリースされていたよ」と感激していたという。どんな苦境でも野球だけは続けさせてくれた両親へ、異国の地で恩返しを果たした。
2年目から先発ローテーションの中心として君臨。チームを背負う立場になるにつれ、芽生えていったのは日本野球へのリスペクトだった。顕著だったのは、新たに加入してくる助っ人へ向けられる厳しい姿勢。春季キャンプ中、ある外国人選手がランニングメニューでの全力疾走を怠っているとその場で「そんな姿勢では厳しい」と指導する姿も目にした。「成績を残せず、すぐに帰国した選手を何度も見てきた。日本の野球をなめて欲しくない」。
若手への助言も惜しまなかった。同じ高身長で上から投げ下ろすタイプの才木浩人を気に懸け「持ち球も自分と似ている。どんな投手になるか楽しみだね」と若き日の自分と重ね合わせた。有望株の成長、チームの明るい未来も強く願う姿勢や発言はタテジマ一筋の“生え抜き”そのもの。だから、巨人との「伝統の一戦」にも執念を燃やした。来日1年目にグランドスラムを被弾した坂本とは終わってみれば、他球団で最も対戦した打者になった。引退会見でも「彼と対戦する時はいつも高ぶりがあった」と称し、125打数44安打の打率.352、6本塁打、20打点と打ちまくった坂本も「凄い投手。良い投手から打てたことが若い時に自信になった。ありがとうと言いたい」と呼応。球界を代表する強打の遊撃手の前に何度も立ちはだかってきた正真正銘のライバルだった。
メッセンジャーが阪神に遺したもの
いつも背中を押してくれたのは「世界一の声援」と称したファンの存在。メジャー再挑戦に目もくれず、開幕投手にひたすらこだわり続けた右腕は「タイガースのエースでいること」に野球人生のすべてを捧げた。だからこそ、引き際も潔かった。昨春から状態が悪化していた右肩が限界だと悟ると、引退を表明。もう、このパフォーマンスでは甲子園を沸かせることはできない――。プライドだけは捨てなかった。
「遺したもの」は大きい。昨年の開幕前、「後輩たちに自分がやってきたことがレガシー(遺産)として残ればいい」と語った。今季、防御率1.01と驚異的な数字でリリーフの中心となった岩崎優は言った。「“チームを勝たせてやる”という気持ちがすごかったので。試合への準備、練習量も含めて真似できない人でした。自分はずっとランディに憧れていました」。勝利への執念、プロとしての立ち振る舞い……目にしてきた後輩たちが引き継ぐものは少なくないはずだ。誰よりもタイガースが強くなることを望んでいた「ランディ・メッセンジャーの精神」は、これからもタテジマに、甲子園に生き続ける。