沖縄でカナダ代表と対戦
いよいよ、侍ジャパンが東京五輪に向けて本格的に動き出した。
11月2日にメキシコ・グアダラハラでオープニングラウンドが始まる『プレミア12』。この大会は五輪予選も兼ねており、南北アメリカ、アジア・オセアニアの両大陸のそれぞれ最上位国が東京への切符を手にする。
11月5日に台湾で初戦を迎える日本は、すでに開催国枠で五輪出場を決めているが、東京五輪へ向けて、前回大会で逃した金メダルを取っておきたいところだ。
侍ジャパンは、この大会に向けて10月21日から宮崎で合宿を開始、日本ハム、オリックスと練習試合を経て沖縄に移動し、那覇で2試合の強化試合をこなして本番に臨む。今回の強化試合の対戦相手はカナダ。そのカナダは、韓国で開催されるグループCでのオープニングラウンドを戦う。
カナダ野球と聞いても、日本人にはあまりピンとこないだろうが、この国にはトロント・ブルージェイズというメジャーリーグ球団もあり、ジョーイ・ボット(レッズ)、ラッセル・マーティン(ドジャース)らが現在でもメジャーリーグでプレーしている。アメリカ人助っ人の影に隠れがちだが、もちろん日本のプロ野球でもカナダ人はプレーしてきた。
今季は、スコット・マシソン(巨人)とアンドリュー・アルバース(オリックス)の両投手がNPBでプレーした。彼らはともにWBCの直近2大会で代表チーム入りし、マシソンは今回のメンバーにも選出されている。
▼ マシソン(巨人/2012-19年)
投:421登板/27勝29敗54セーブ174ホールド/防御率2.46
▼ アルバース(オリックス/2018-19年)
投:32登板/11勝8敗/防御率4.06
日本球界初のカナダ人選手は?
これまで日本のプロ野球でプレーしたカナダ人選手は13人。その歴史は、1959年にまでさかのぼる。
この年、1シーズンだけ東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)で投手としてプレーしたのが、ボブ・アレキサンダー(投手/1959年)だ。1922年生まれの彼がプロキャリアを始めたのは、20歳になる1942年のシーズン。ヤンキースのC級カンナムリーグのアムステルダムでのことだった。
この町が位置するのはアメリカ・ニューヨーク州。他のカナディアン同様、彼もまたプロ野球選手になるためには国境を越えなければならなかった。バンクーバー生まれのアレキサンダーが母国でプレーできるようになったのは、セントルイス・ブラウンズにトレードされた1951年。当時このチームは3Aインターナショナルリーグのモントリオール・ロイヤルズとアフィリエーション契約を結んでおり、晴れて母国のプロチームの一員となる。
ここで3シーズンプレーした後、同じく3Aパシフィックコーストリーグの独立チーム(当時はメジャー球団とアフィリエーション契約を結ばない独立球団がメジャー傘下のマイナーリーグに加盟していた)、ポートランドに移籍した後、1955年、33歳のシーズン、ようやくオリオールズでメジャーデビューを果たす。
メジャーでは1957年のインディアンズを含めわずか9試合の登板に終わり、日本行きを決心するが、来日当時すでに37歳を迎えていた彼は、日本でも力を発揮することはできない。先発投手として7試合に登板したものの、2勝5敗に終わった。
▼ アレキサンダー(東映/1959年)
投:13登板/2勝5敗/防御率4.58
日本経由でメジャー復帰も
この後、日本プロ野球におけるカナダ人選手の系譜は長い間途切れる。次に来日したカナダ人選手は、1993年に中日でプレーしたマット・ステアーズ(外野手/1993年)だが、年号はすでに「平成」に変わっていた。
東部ブラウンウィック州出身のステアーズは、ケベック州にあったメジャーリーグ球団、モントリオール・エクスポズでくすぶっていた中、シーズン途中に来日したものの、60試合で打率.250、ホームラン6本と、ここでも期待外れに終わり、このシーズン限りでの退団を決意する。
しかし、1995年にレッドソックスでメジャー復帰を果たすと、次の移籍先であるアスレチックスでブレーク、2011年にナショナルズで引退するまでのメジャー通算19シーズンで1366安打、265本塁打を記録した。また、2007年にはトロント・ブルージェイズでプレーしており、エクスポズと合わせてカナダの2つのメジャー球団でプレーした数少ないカナダ人選手となっている。
ちなみに彼は1988年のソウル五輪のカナダ代表のメンバーとしてプレーしているが、この時、カナダは銀メダルを獲得した日本とは別組で予選ラウンドで敗退したため、対戦はしていない。
▼ ステアーズ(中日/1993年)
外:60試合/打率.250(132-33)/6本/23打点
球団別ではヤクルト、日本ハムが最多
カナダ人助っ人を球団別で見てみると、ヤクルトと日本ハムが最多で、これまで3人がプレーしている。
ヤクルトでは、トッド・ベッツ(内野手/2003年)、アーロン・ガイエル(外野手/2007-11年)、クリス・ラルー(投手/2013年)の3人がプレーしている。この中で最も名前が知られているのは、在籍5年で90本塁打を記録したガイエルだろう。彼は2006年の第1回WBC代表に選ばれていたが、この大会を制した日本とカナダの対戦は実現しなかった。
それに対しベッツは、ヤクルトを退団した翌年の2004年、アテネ五輪の代表選手として予選リーグと3位決定戦で2度、日本代表と相まみえている。カナダは2試合とも日本に惨敗し、メダルを逃したが、ベッツはその後も独立リーグでプレーを続け、2007年に初めて経験した母国カナダのチーム、ノーザンリーグのエドモントン・クラッカーキャッツでキャリアを終えている。
アテネ五輪でベッツとともに「長嶋ジャパン」と対戦したのが1995年から2シーズン、日本ハムで長打も打てる1番打者として名を馳せたロブ・デューシー(外野手/1995-96年)だ。トロント生まれの彼は、高校卒業後の1984年、カナダの野球少年のあこがれであるブルージェイズと契約。アルバータ州メディシンハットのルーキー級でプロデビューを果たした。
母国でプロデビューを果たせるというのはカナダ人としてはなかなかないこと。その後、昇格すると国境を越え、アメリカ各地を転々とするが、1987年には生まれ育ったトロントでメジャーデビュー。しかし、トップリーグではポジション確保には至らず、1995年に海を渡って日本球界への挑戦を決意した。
日本を離れた後は、マリナーズでメジャー復帰を果たし、2000年には古巣ブルージェイズに移籍して再び故郷の地を踏んだ。翌年には、もうひとつのカナダメジャー球団だったモントリオール・エクスポズでもプレーし、メジャーでのキャリアを終え、2002年の独立リーグを最後に現役引退。アテネ五輪に際しては、現役復帰してコーチ兼任選手としてこれに臨んだ。ちなみに、前回のプレミア12ではコーチとして代表チーム入りを果たした。
▼ ベッツ(ヤクルト/2003年)
内:112試合/打率.287(408-117)/15本/52打点
▼ ガイエル(ヤクルト/2007-11年)
外:441試合/打率.234(1411-330)/90本/239打点
▼ デューシー(日本ハム/1995-96年)
外:237試合/打率.248(852-211)/51本/120打点
ビッグバン打線のあの選手も…
デューシーと入れ替わる形で1997年に日本ハムに入団したナイジェル・ウィルソン(外野手/1997-2002年)は、来日1年目に37本塁打を記録すると、翌年は33本塁打で本塁打王を獲得。主砲として『ビッグバン打線』をけん引し、2002年の大阪近鉄バファローズ時代を含め、NPBでは計6シーズンで119本塁打を放った。
日本ハムではその後、2012年から翌年にかけてダスティン・モルケン(投手/2012-13年)が在籍。国際大会の常連で、2013年、2017年のWBC、それに前回の『プレミア12』でも代表入りしているが、彼もまた侍ジャパンと対戦することはなかった。しかし、35歳となった今も母国カナダにあるケベック・キャピタルズで現役を続けており、今回の代表チームにも選出されている。
2016年に横浜DeNAベイスターズでプレーし、30試合の出場で打率.113と散々な成績に終わったジェイミー・ロマック(内野手/2016年)は、2017年から韓国のSKワイバーンズでプレー。日本での経験を生かし、スラッガーとして活躍しているが、今回の代表チームには選出されていない。
日加両国のトップ代表が、強化試合とは言え、激突するのは、2004年のアテネ五輪3位決定戦以来のこと。本戦でも相まみえることができるよう、両チームには質の高いゲームを沖縄のファンに見せてもらいたい。
▼ ウィルソン(日本ハム/1997-02年)
外:461試合/打率.265(1678-444)/119本/337打点
▼ モルケン(日本ハム/2012-13年)
投:28登板/2勝1敗9ホールド/防御率3.38
▼ ロマック(DeNA/2016年)
内:30試合/打率.113(71-8)/0本/2打点
文=阿佐智(あさ・さとし)