白球つれづれ2020~第3回・野球殿堂入り
1月14日に発表された『野球殿堂』のエキスパート部門に、かつて阪神や西武で活躍した田淵幸一氏が選出された。大学時代からの親友であり、ライバルでもあった山本浩二氏から遅れること、12年。星野仙一氏からは3年遅い殿堂入りだ。
もっとも、そんな大親友3人が揃って表彰されるケースはごく稀なこと、球界の慶事と言っていいだろう。
「天性のホームランアーチスト」と呼ばれた。日本人では珍しいほど打った瞬間に本塁打とわかる弾道と飛距離。放り投げるバットの角度さえ格好良かった。
16年の現役生活で放った本塁打は474本。阪神時代の1975年には43ホーマーで初タイトルを獲得、それが王貞治氏の14年連続本塁打王を阻止する勲章となった。全盛時は毎年35~45本近くの本塁打を量産している。同じ時代に王がいなければもっとタイトルを獲れていただろう。
法大時代に記録した22本塁打は当時の東京六大学記録となる。神宮の花形スターはドラフトで阪神入り。この時、巨人と田淵は相思相愛で熱烈ラブコールを送っていたが、阪神に先を越された。
巨人は「田淵が取れなかったときは星野でいく」と事前に語っていたが、結局その星野も指名されず、神奈川・武相高の島野修の名前が読み上げられた。もしも、このドラフトで田淵が巨人入りしていたら「ONT砲」が誕生していたことになる。勝負に「たられば」は禁句だが、どんな破壊力になったのか?ちょっぴり想像したくもなる。
王だけでなくケガとの闘いも…
王の二番手としてホームラン人生を歩んだ田淵だが、惜しむらくはケガとの闘いがなければ、もっと数字を積み上げていたはずだ。特に捕手というポジションが彼にとって適正だったのか?
プロ入り2年目の70年に最初の大事故が起こる。当時の広島のエース・外木場義郎の投球を左こめかみに受けて昏倒、耳から出血して救急車搬送された。その後も毎年のように故障に悩まされる。当時の野球界を振り返ると、巨人の人気はひときわ高く、セリーグのライバル球団も「ONにはデッドボールはぶつけちゃいかん」が暗黙の了解。逆に捕手は内角の厳しいコースを責められることが多く、鳴り物入りで入団した田淵などは格好の餌食となった側面は否めない。
西武移籍後は一塁や指名打者での出番が増えたが、ここでも故障との戦いは続く。83年には夏場前に29本塁打をマークして「タイトルは間違いなし」と言われながら、7月の近鉄戦で柳田豊投手から死球を受けて左手を骨折。両リーグ本塁打王の野望も消えた。
捕手というポジションは肉体的な疲労も多い。データや配球の勉強なども加えると打撃どころではなくなるケースもある。捕手で三冠王を獲得した野村克也氏は例外中の例外、残念ながら田淵は野村ほどケガに強い捕手ではなかった。
純粋で裏表のない人間
現役引退後、さらに田淵の二番手人生は顕著になる。阪神時代に黄金バッテリーを組んだ江夏豊氏は「ブチほど純粋で裏表のない人間はいない」と語る。最高の褒め言葉も勝負の世界では、時として「お人好し」は勝負強さの裏返しになる。
ダイエーで3年間、監督を務めたがBクラスが続き成功したとは言えない。その後は阪神、楽天でヘッドコーチや打撃コーチとして盟友・星野を支え続けた。北京五輪では星野監督に山本、田淵の“黄金トリオ”で勝負に挑んだがメダルに手は届かなかった。
「俺は監督に向いていない。せいぜいヘッドまで」と自嘲気味に語ると、グラウンドでは星野の前で「仙ちゃん」と呼ぶことはなく「監督」で通した。
六大学でもプロでも人気では星野より、山本より上を行った田淵が、晩年は番頭として生きる道を自ら選んだ。
「これで仙ちゃんも喜んでくれる」。天国にいる星野に贈る野球殿堂入りの報告。もう「仙ちゃん」でいい。山あり谷ありの白球人生だが、久しぶりにスポットライトの当たる場所に帰ってきた。やはり田淵には底抜けの笑顔が似合う。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)