『男たちの挽歌』第15幕:吉村禎章
かつて、巨人の未来を背負う才能の持ち主と言われた、若き天才打者がいた。
吉村禎章である。平成ジャイアンツの背番号55は松井秀喜の代名詞だが、昭和の時代は巨人の55番といえば吉村だった。上手さと柔らかさとパワーを併せ持つ左バッターは、高卒3年目にはクリーンナップを打ち、24歳で打率3割、30本塁打をクリアしてみせる。今のチームでいえば、岡本和真のような立ち位置の逸材だった。
PL学園から81年のドラフト3位でプロ入りすると、1年目の夏に一軍デビューを飾り、2年目には84試合で3打席連続アーチを含む打率.326をマーク。同世代の駒田徳広、槙原寛己との「50番トリオ」が人気となり、3年目の84年は298打席で打率.342、13本塁打、OPS1.030。秋の日米野球では打率4割超えと打ちまくり、メジャーリーガーたちを驚かせる。その成長曲線は、高卒スラッガーとしては理想的なものだった。
22歳の85年には、ついに初の規定打席到達。バース、岡田彰布に次ぐ、リーグ3位の打率.328で主力打者として完全に定着する。女性人気も高く、ぽっちゃり気味の体型に丸い瞳で“ポチ”というニックネームがついていたが、意外に足も早く、背番号7に代わった86年は10盗塁を記録している。
そして、24歳で迎えた87年には打率.322、30本塁打、86打点、OPS.949で王・巨人の初優勝に貢献。新時代の象徴、88年3月18日のオープン戦で開場した東京ドームの第1号を放ち、将来的に原辰徳の巨人4番の座を継承するのは吉村しかいないと誰もが信じた。
思えば、長嶋政権にはチームの未来を託す松井秀喜がいて、原政権には坂本勇人がいた。近年の高橋監督にも岡本和真がいた。そして、あの頃の王監督には吉村禎章という若き天才スラッガーがいたのである。
悪夢のようなアクシデント
そんな吉村の、いや巨人というチームそのものの運命を狂わせた事件が起こったのは、1988年7月6日、札幌円山球場での中日戦でのことだ。当時の巨人は年に一度の恒例行事、北海道シリーズが組まれておりデーゲームで行われていた。「3番左翼」で先発出場したこの試合の3回裏、25歳の吉村は3試合連続の13号3ランアーチをライトへ放っている。これが記念すべき通算100号本塁打だった。
メモリアルゲームとなるはずが、9対1と大量リードして迎えた7回裏、吉村の前の打者で攻撃が終わり、8回表のレフト守備に就く。実は、吉村まで打順が回っていたら、この守備から交代する予定だったという。
マウンドにはビル・ガリクソン、一死から中日・中尾孝義の放った打球が左中間へ飛ぶ。レフトの吉村が追いつき捕球体制に……と思ったら、猛烈なスピードでセンターを守る栄村忠広が突っ込んできた。不意に衝突され、相手の全体重が左ヒザにのしかかる形になった吉村は倒れ込み、担架で運び出される。ちなみにこの栄村も8回表からセンター守備に就いていた。ドラフト外入団の叩き上げで、足と守備でアピールするしかない立場である。
悪夢のようなアクシデントだった。吉村は左ヒザのじん帯4本のうち3本を断裂、腓骨神経も損傷する交通事故レベルの大怪我が判明し、日本で手術するのは不可能で7月10日に渡米。だが当時の『週刊ベースボール』によると、スポーツ医学の権威、フランク・ジョーブ博士(人気ゲーム『パワプロ』のダイジョーブ博士の元ネタ)をもってしても「今まで見たことがないひどい切れ方で、ここまで複雑な手術は初めて」と振り返るほどの重症だったという。
2時間に及ぶ大手術を終え、8月20日に帰国。ギプスをつけたまま椅子に座ってのトスバッティングを再開したが、左足の指の感覚がなく、ヒザから下もスムーズに動かない。このままでは野球どころか日常生活にも支障が出てしまう。9月25日、再検査のため渡米。この時、球団内には復帰に対し悲観的な空気が流れたという。
結局、一時的に回復するも、年が明けた89年2月15日にジョーブ博士のもとで神経移植の再手術を行う。マスコミは容赦なく復帰は絶望的と書き立てる。それでも、吉村は諦めなかった。壮絶なリハビリを経て、足を保護するブレース付きの特製スパイクを履き、グラウンドに戻ってきたのである。
不撓不屈の男
89年9月2日、東京ドームのヤクルト戦で423日ぶりに一軍の打席へ。まだ二軍戦にも出ていなかったが、優勝へ向けてラストスパートに入るチームの起爆剤として異例の復帰。1点リードされた7回裏二死三塁の場面で藤田監督から代打が告げられると、東京ドームは凄まじい大歓声に包まれた。
ルーキー川崎憲次郎の4球目を打つも二塁ゴロ。それでも吉村は一塁へ必死に噛みしめるように走った。凡打にもかかわらず観客からはホームラン以上の拍手が送られる。背番号7は涙を流し、テレビの前のファンももらい泣きした。
左打者にとっての軸足を怪我したことにより、右足に早く体重を移し、腰を回転させる新打法を試行錯誤しながら作り上げ、翌90年には84試合で打率.327、14本塁打という好成績を残し、史上最速のリーグVを決めるサヨナラ本塁打を放ってみせた。
しかし、翌年以降は走力の低下から外野守備が不安視され、93年に松井秀喜の入団やFA制度の導入もあり、徐々に代打起用が多くなる。
出場数が100試合を超えたのは故障前年の87年以降はなく、二桁本塁打は91年の10本が最後だった。DH制度があるパ・リーグ球団への移籍話は幾度となくスポーツ新聞で報じられたが、自ら巨人でプレーすることを選ぶ。生え抜きのリーダーとして選手会長を務め、勝負強い切り札として長嶋監督から重宝された。97年には69試合で1本塁打に終わり引退報道が出るも現役続行。そして、吉村は波瀾万丈の現役生活を締める「最後の1年」を迎えるわけだ。
ミスターからの贈り物
98年(平成10年)の巨人は22年ぶりにキャプテン制を復活させる。主将の座を託されたのが、35歳の吉村である。プロ17年目のシーズンは5月24日の広島戦で通算149号アーチを放ち、その後も代打率3割をキープ。チームは開幕5連勝スタートも怪我人が続出して3位がやっとだったが、長嶋監督は大怪我にも負けず、代打でも腐らず準備し続けた吉村への花道を用意する。
「1打席、1打席、応援してもらったファンの人たちに、心より感謝したいです」と引退会見で語った背番号7に対し、ミスターは残り3試合のシーズン最終盤、10月1日と2日の広島戦で「4番一塁」で先発起用したのである。
4年ぶりの4番に座った吉村は2安打を放つが、あと1本に迫った通算150号アーチ挑戦は本拠地での最終戦、10月3日の広島戦に持ち越し。9年前に代打で劇的な復活を果たした東京ドームで、最後の打席も7回に代打で登場したが二飛に終わった。
引退直後に『週刊読売』でキャスターの宮崎緑から受けたインタビューにおいて、「歴史に『もし』は禁物ですけど、『もし、怪我をしなければ……』とか思われません?」と聞かれ、吉村はこう答えている。
「17年間現役でやって終わったんですが、すごく良いことも経験しましたし、怪我でどん底も経験できたので、非常に面白いというか、自分なりに17年間いろんなことがあったなというふうに、いま振り返ってはいるんですけどね」
巨人ファンの夢想
もちろん、あれだけの重傷を負いながら、復帰後10シーズンもプレーした技術と不屈の精神力は偉大だ。それでも、ファンは時々想像してしまう。もしも、あの88年7月6日の大怪我がなかったら、その後の巨人の歴史は大きく変わっていただろう、と。
83年から6年連続シーズン打率3割、怪我をするまでの通算打率.321、自身をアベレージヒッターと評しながらも25歳にして通算100号を放った早熟の天才打者。FA制度が導入された93年オフ、吉村は通常なら全盛期を迎えるであろう脂の乗りきった30歳だった。
背番号7が4番に定着して、11歳下の松井と組む“MY砲”は夢に溢れているし、PL学園の後輩でもある清原和博がFA移籍してきたら、「松井、吉村、清原」のクリーンナップで後輩のプレッシャーもだいぶ軽減されていたはずだ。90年代後半には「ライト由伸、センター松井、レフト吉村」と球団史上屈指の強打の外野陣が見られたかもしれない。いまだにファンにそんな妄想をさせるほど20代前半の吉村禎章の才能は煌めき、底が知れなかった。
さて、その吉村と50番トリオと呼ばれた男のことを覚えているだろうか。巨人から国内他球団へ自らFA移籍した唯一の生え抜き選手、駒田徳広である。
【次回、駒田徳広に続く】
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)