史上40人目の2000安打
球音が戻ってこない――。大型連休中、本来であれば球場に大勢のファンが詰めかけ、選手に声援を送っていたに違いない。
8年前の2012年5月4日を振り返ると、神宮球場ではヤクルト対広島戦が行われていた。この日、一人の男に多くのファンの熱い視線が注がれていた。ヤクルト一筋18年の宮本慎也が、節目の通算2000安打まであと1本と迫っていた。
雨が降る中での宮本の第1打席。無死一塁の場面でそのときがやってきた。広島の先発は福井優也(現楽天)。1球目ボール後の2球目をはじき返すと、打球は遊撃手の横を抜けてセンター前へ。史上40人目、大学・社会人を経ての2000安打達成は、ヤクルトで共にプレーした古田敦也氏以来2人目の快挙となった。
チームメイトが駆け寄ると、宮本は両手を上げて喜びを表現。それぞれハイタッチを交わすと、この日“主役”となった背番号「6」は、ファンからの鳴りやまない「宮本コール」を一身に浴びた。
通算400犠打以上ではただ一人
試合後のインタビューで宮本は「ほっとしたのと、こんな満員の神宮球場で打てて本当に幸せです」と、記録達成の瞬間を見守ってくれたファンに感謝の思いを口にした。
そして最後に「明日からまたヤクルトの勝利のために頑張りたいと思います」と語った41歳は、この年の9月に史上3人目となる通算400犠打も達成。2000安打を達成した選手では、宮本ただ一人しかいない偉業だ。
宮本は歴代3位の通算408犠打を記録。01年にはプロ野球記録となるシーズン67犠打を達成している。チームのため、まさに「自己犠牲」でプロ19年間を生き抜いてきた男は、生涯安打数でも2133本を誇る。
野村監督から「勘違いするなよ」
宮本が入団した当時、ヤクルトの指揮官は野村克也監督。野村監督からは「一流の脇役になれ」という言葉を授かりプレーしてきた。
その恩師が今年の2月に亡くなり、宮本は「大恩人です。いまこの場にいること自体が野村監督のおかげ以外の何物でもない」と語っている。
また、「監督が辞める残り数試合でホームランを打った。褒めてくれるのかなあと思ったら『勘違いするなよ』と言われた。最後の最後まで褒めないんだなあと思った」と、野村監督との思い出を振り返った。
自身が一流と認めた選手には非難し、褒めることをしなかった野村監督。宮本を「一流の脇役」と認めていたからこそ発した言葉だったのだろう。
宮本と言えば、鉄壁の守備。遊撃手、三塁手と合わせてゴールデングラブ賞10度も記録し、守りでもファンを魅了した。野村監督の下、そんな「守備の人」として起用されるようになった宮本は、球界の顔として名球会に名を連ねるまでの選手となった。
13年に現役を引退し、18年からはヘッドコーチとしてヤクルトに復帰。この年チームは前年最下位から2位に躍進を遂げたが、翌19年に再び最下位に転落。宮本ヘッドもユニフォームを脱ぐことになる。
「(野村氏から)『はよ監督せい』とおっしゃっていただいていた。残念ながらそういう姿を見せられなかった」
名将・野村克也が心待ちにしていた「監督・宮本慎也」。いつの日か、その姿を天国の恩師に見せるときがきっとやってくるに違いない。
文=別府勉(べっぷ・つとむ)