“先輩”と投げ合った“愛弟子”
その感情は複雑ではなく、明確だった──。
7月31日、ヤクルト戦(ナゴヤドーム)。今季7度目の登板で初勝利を目指す中日・大野雄大に対して、「大野さん、きょうだけは勘弁してください…」と祈っている男がいた。
京都外大西高の1学年下で、大学卒業後の2012年には左腕を追いかけるようにドラフト4位で中日ドラゴンズに入団した、辻孟彦さん。2015年からは日体大でコーチを務めている。
先輩が投げるから、背筋を伸ばしてテレビの前に座る。しかし、その先輩ではなく、ヤクルト先発のドラ2ルーキー・吉田大喜のプロ初星を願っていた。
“先輩”が見せた意地
辻さんはプロ通算13試合に登板。引退後は学生野球資格を回復し、母校・日体大に戻った。コーチとして選手の指導にあたり、高校生のスカウトも行う。
吉田大喜は大阪・大冠高の出身。高3時は2015年だった。同高の監督が日体大OBという縁もあって視察。辻さんにとっては、高校に足を運び、入学へと導いた「第1号」。それが吉田だったのだ。
ただし、辻さんにとって厄介なのは、大野とも関係が深いこと。高校・プロ入りで同じチームだっただけではなく、中学も一緒。プロ入り後は可愛がってもらった。
「大野さんの投げる試合は毎回見ています。でも今日は、吉田を応援させてもらいます。大野さんには大野さんらしいピッチングをしていただいて、でも、勝ち星は吉田です」
記者が「どっちを応援するの?」と聞くと、こう返ってきた。
試合は吉田が5イニングを投げて被安打3、失点2という力投。リードして降板したが、その後、リリーバーが打たれて白星は消えた。一方、大野は援護を待ちつつの粘りの投球で完投勝利。今季1勝目を手にしている。
記者は試合後、辻さんと再び連絡をとった。
「試合はつくったので、よかったと思います。でも、まだまだ大野さんとはレベルが違いましたね!スタミナ、ボールの球威、気持ちの入り方…。吉田はベンチから良い勉強になったんじゃないですかね。冷静で頭はいいので、大野さんの投球をみて今日は感じるものはたくさんあったと思います」
祈りは通じなかったが、前向きに話してくれた。
説いてきた“内角”の重要性
最後に、辻さんのコーチとしての指導法を紹介しよう。
外角低めへの制球が野球界の基本。故・野村克也さんもそう説いている。ヤンキース・田中将大にも受け継がれているが、そのスタンダードをどう捉えているのか。
「内角が大切になってきていると思います。今の打者は簡単に逆方向へホームラン打ちます。アウトコースだけでは抑えられません。カットボールやシュート、ツーシームなどの曲がりが小さくて速いボール、またスプリットやフォークなどの落ちる球が重要だと思います」
辻コーチはこのように答えた。
競技は進化する。球界に携わるものとして、トレーニング法を研究し、情報をアップデートし続けている。
もちろん、外角低めは重要なポイント。その上で、吉田には“内角”の重要性を言い続けていた。だからこそ、上位での入団も果たした。思えば、プロ3度目の登板となったこの日、右腕はしっかりと竜打線の内角を突いていた。
コロナ禍で止まっていた大学野球界も、いよいよ再始動する。日体大の所属する首都大学野球連盟は、春のリーグ戦を中止に。同大は8月から全体練習を始め、オープン戦を実施していくという。
現役を引退して母校のコーチになり、プロへ選手を送り出す立場となった辻さん。今秋のドラフト上位候補・森博士投手(愛知・豊川高)は、地元・中日はもちろんのこと球界が注目する右腕。また、吉田をはじめ、同じく辻さんの教え子である西武・松本航やロッテ・東妻勇輔らにも、アンテナを伸ばして見てみようと思う。
球界はつながっている。そして、新たな物語は紡ぎだされる。
文=川本光憲(中日スポーツ・ドラゴンズ担当)