今年もあった「代打に投手」
8月のプロ野球で大きな話題を集めた「野手登板」という采配。8月6日の阪神-巨人(甲子園)の一戦で、大量リードを許した巨人・原辰徳監督が内野手の増田大輝をマウンドへ。日本では滅多にお目にかかれない起用法だっただけに、大きなインパクトを残した。
今回はその“逆”のケース、「投手の代打」にまつわるエピソードをご紹介したい。
今年も7月7日に行われた中日-ヤクルト(ナゴヤドーム)で、1点を追う中日は延長10回に二死満塁というチャンスを作るも、打順は投手の岡田俊哉。しかし、中日はここまでに野手を使い果たしていたため、一打同点・逆転のチャンスで登場したのは投手の三ツ間卓也だった。
三ツ間は空振りの三振に倒れ、そこで試合終了。この采配が波紋を呼んだのはご存知の通りである。
「野手登板」と比べると、過去にもこうした控え野手を使い切ってしまったケースなどで、投手が代打や代走に起用された例は少なくない。また、時には投手を代打に立てるという策がズバリと当たったケースもあった。
思えば投手といえど、高校時代は4番を張っていましたという選手は多々おり、打撃センスの良い選手が多いのも事実。というわけで、ここでは過去に“値千金のひと振り”を演じた投手たちを振り返ってみたい。
金田正一は代打でホームラン2本
プロ野球史上最強の“投手の代打”といえば、何といっても金田正一(国鉄-巨人)で決まりだろう。
通算400勝・4490奪三振・365完投など、数々の日本記録を打ち立てた大投手は、打者としても史上最年少(17歳2カ月)のプロ1号をはじめ、投手では最多の通算38本塁打を記録。うち2本が“代打本塁打”だ。
代打1号は、国鉄時代の1962年9月22日に行われた広島戦。
0-1とリードされた8回一死二塁、「代打・金田」のアナウンスにスタンドは沸きに沸いた。ファンの声援に手を振って応えた金田は、大石清の初球、高めカーブをフルスイングで右翼席に叩き込む。完封勝利目前、投手に代打逆転2ランを浴びた大石は、マウンドで呆然とするばかりだった。
代打2号は、巨人時代の1968年6月26日に行われた中日戦。
8回ごろからベンチ裏ロッカーの大鏡の前で入念に素振りを繰り返していた金田は、0-3の9回に代打に起用されると、初球をいきなりオーバーフェンス。次打者・黒江透修の連続弾で1点差に追い上げ、王貞治のバットに期待がかかったが、最後は一・二塁間を内野手4人で守る超変則シフトの前に一ゴロに倒れ、ゲームセット。
金田は「あれで同点になって、ワシがリリーフするようになったら、最高やったのになあ」と残念がった。
なお、同年7月9日の広島戦では、延長10回に代打で登場。通算1000試合出場(投手で911試合、打者で89試合)を達成する珍事も体験している。
ここでは遊飛に倒れ、「本音はマウンドに立ちたかった。勝ち投手で飾りたかった」と複雑な心境を吐露している。
堀内恒夫は大谷翔平も顔負けの“二刀流”
巨人といえば、V9時代のエース・堀内恒夫も、1967年10月10日の広島戦でノーヒットノーランと3打席連続本塁打を同時に記録した、大谷翔平も顔負けの二刀流だった。
1974年8月3日の阪神戦。9回二死無走者で代打に起用されると、「走者がいなかったからね」と一発を狙ったが、江夏豊の高め速球に手を出して三振。「あの球は投手では打てん」とぼやいた。これが唯一の代打記録。もっと見たかった気もする。
一方、1988年のオールスター第3戦で、サヨナラ勝ちのヒーローになったのが水野雄仁だ。
3-3の延長12回。無死一・三塁というチャンスに、池田高時代の強打を買われ、王貞治監督に代打指名された。「思い切っていけ!」の言葉に背中を押されると、牛島和彦からバックスクリーン近くへあわやサヨナラ3ランという値千金の決勝犠飛。投手がサヨナラ勝ちを決めたのも、サヨナラ犠飛による決着も、球宴史上初の珍事だった。
桑田真澄はバスターで“決勝タイムリー”
PL学園時代、歴代2位タイとなる甲子園通算6本塁打を記録した桑田真澄も、プロ17年目の2002年6月18日・横浜戦で、初の代打起用があった。
延長11回、無死一塁という場面。ベンチには清原和博ら3人の野手が控えているにもかかわらず、原辰徳監督はどんな場面でも適応できる器用な打撃センスを買った。
送りバントとみた一塁手と三塁手が猛然とダッシュしてくると、桑田はバントの構えからバットを引き、バスターで鮮やかに三遊間を抜く。この一打が仁志敏久の決勝タイムリーを呼び込み、原監督も「ジャイアンツ・スピリット勝ちだ」と大喜びだった。
「代打・松坂大輔」はダメ押し打を放つ
横浜高時代に春夏連覇を達成した松坂大輔も、鹿児島実戦で“ノーヒットノーラン男”・杉内俊哉から左翼席に豪快なアーチを叩き込むなど、打撃に定評があった。
代打でプロ初打席に立ったのが、西武2年目の2000年8月7日・オリックス戦。
8回に逆転した西武は、その時点で16人の野手を使い果たしたため、DHを解除して投手のデニーを9番に入れる。9回の攻撃を5人以内で終えれば、そこまで打順が回ってこないはずだったが、よりによって二死満塁でデニーに回ってきた。
そこで、東尾修監督は急きょ登板予定のなかった松坂を代打に指名。投手に対して内角攻めはしづらいことを逆手に取って、押し出し四球狙いの策だったが、案の定、投げにくそうな栗山聡は3ボール・1ストライクとボールが先行した。
打者有利のカウントになると、「おい、大輔、打ってもいいぞ!」とベンチの声。「何が何でも振ってやろう」とうずうずしていた松坂は、「待ってました!」とばかりに2球続けてファウルのあと、7球目の140キロ直球を見事にとらえて二遊間へ。これがダメ押しの2点タイムリーとなり、結果的に守護神・森慎二を休ませることができた東尾監督は「本当に大きな一打だ」とニコニコ顔だった。
また、広島・山本浩二監督も、2002年8月15日の中日戦で河野昌人、2003年7月10日の阪神戦ではブロックと、打力のある投手を相次いで代打起用した。
惜しくもファウルになってしまったが、河野の“幻の逆転サヨナラ3ラン”も印象深い。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)