西武が執念の投手リレーで勝利
9月26日、メットライフで行われた西武-楽天の一戦。西武はこれが本拠地デビューとなる助っ人左腕のショーン・ノリンが、初回をわずか8球で三者凡退に斬る好スタート。挨拶代わりの好投で、さぁここから…というところにアクシデントが襲い掛かる。
2回表の開始前、投球練習を終えた左腕のもとに西口文也投手コーチが駆け寄り、一旦ベンチへ。すると、ここでまさかの投手交代のアナウンスが。2回頭から、2番手として中塚駿太が登場した。
なんでも、左肩に強い張りがあったということで緊急降板。病院には行かずに様子を見つつ、翌27日付で登録抹消。そんな緊急事態のなか、西武は後を受けたリリーフ陣が奮闘を見せる。
中塚が2回を1失点でなんとかしのぐと、以降は小川龍也から國場翼、宮川哲とバトンをつなぎ、1-1で迎えた7回には好調・森脇亮介が打者3人を13球で仕留める好リリーフ。
すると打線がその裏に3点を挙げて勝ち越し、8回は平良海馬が1安打を許しながらも1奪三振で無失点。5-1となってセーブシチュエーションではなくなった9回は、リード・ギャレットが9球締め。終わってみれば計8投手のリレーで快勝。まさにブルペン総動員で白星を掴んだ。
今季は日程がギュッと詰まっていることもあり、リリーフ投手のみで1試合をしのぐ「ブルペンデー」という作戦も珍しくなくなった。
リリーフ投手の負担増というのはこの終盤戦における大きなポイントで、特に上位を争うチームはプレッシャーものしかかるなか、“一戦必勝”の小刻みな継投というシーンも増えていくことだろう。
そんなブルペン陣の頑張りにスポットを当てるべく、今回は過去の「小刻みな継投」におけるエピソードに注目。球史に残る“投手リレー伝説”をご紹介したい。
名将・西本幸雄監督の「350勝プレゼント作戦」
少し前まで“先発完投”が当たり前だったプロ野球。その中でよく知られている継投のエピソードといえば、1977年の10月7日、近鉄・西本幸雄監督が阪急戦で行った「米田350勝プレゼント作戦」がある。
通算350勝まであと1勝に迫っていた大投手・米田哲也だが、シーズン終盤に右足親指の付け根を負傷。家の中でも満足に歩くことができなかったという。
それでも、阪急時代から苦労をともにしてきた西本監督は、米田に何とか350勝目をプレゼントして現役引退の花道を飾らせてやろうと考え、「ベンチ入りするだけでいいから」と、シーズン最終戦の阪急戦が行われる西宮球場に呼び寄せた。
初回、平野光泰の本塁打などで一挙4点を先制した近鉄は、2回途中に先発・橘健治がピッチャー返しの打球を受けて負傷降板。そこから太田清春にスイッチし、6-1とリードを広げた4回から、米田を3番手としてマウンドに送った。
足の痛みをこらえながらの登板となった米田。いきなり先頭の蓑田浩二に左越えソロを浴びたが、後続の3人を執念で打ち取り、5回は無失点に封じる力投。
すると、西本監督は6回から佐藤文男をリリーフに送り、7回一死から柳田豊、8回二死から太田幸司と3投手で“必勝リレー”。この采配が実り、8-2で快勝した。
この結果、2番手の太田清は1回2/3、6回以降に投げた3人はいずれも1回1/3ずつだったことから、最も長い2回を投げた米田が勝利投手に。
チーム全員のアシストで歴代2位の金字塔を打ち立てた米田は、「(足の状態が悪いのに)監督やチームメートがみんな“行こう!”と言ってくれた。もうみんな誰彼なく“ありがとう”と言いたい気持ちや」と大感激。
仕掛け人の西本監督も「ヨネは幸せな男だ。こういうことは思惑どおり、なかなかいかんもんや。それがスイスイといった。オレも嬉しい」と喜びを分かち合った。
指揮官が言うように、リリーフが打たれたりして同点になった時点で勝ち投手の権利は消えてしまうのだから、台本どおりに勝利投手になれたのは、持っている運の強さの証明でもある。
日本ハム・大沢啓二監督の“8人リレー”
1イニングずつ9人の投手を投げさせたら、勝ち投手は誰…?
そんな素朴な疑問に最も近い事例と言えるのが、1980年に日本ハム・大沢啓二監督が披露した「投手8人リレー」だ。
前期最終戦となった6月30日の阪急戦。日本ハムは先発・岡部憲章が2回で降板し、5-0とリードした3回からこの日まで9勝を挙げているドラ1ルーキー・木田勇がマウンドに上がる。
木田が3者連続三振に切って取ると、4回は成田文男、5回は杉山知隆、6回は宇田東植、7回は佐伯和司、8回は村上雅則、そして9回は高橋直樹が登板。計8投手による完封劇(7-0)が実現した。
リリーフ7人のうち、木田・杉山・宇田・高橋直の4人が3者凡退に抑える好投。内容の良さから誰に勝ち星が付いてもおかしくなかったが、勝ち投手になったのは木田だった。
「木田は岡部のリードを貰ったことになる。7人がすべて1イニングずつなので、木田の投球内容を加味して勝利投手とした。1/3でも多く投げた投手がいれば、その投手になっていただろう」(千葉功パ・リーグ記録部長)
1イニング投げただけで10勝目を手にした木田は、「ラッキーだった」とホクホク顔だった。
最長イニングを投げたのに“勝ち星”つかず
実は、「1/3でも多く」という条件も絶対ではない。リードを保った状態で、リリーフ陣の中で最長イニングを投げたのに、勝利投手になれなかったのが、巨人時代の南真一郎だ。
1999年7月9日の広島戦。2-0とリードした巨人は、先発・ホセが勝利投手まであと1人の5回二死満塁で押し出し四球を許したことから、岡島秀樹がリリーフ。その後、三沢興一から南へつなぎ、柏田貴史、木村龍治へのリレーで試合終了。7-1で勝利を収める。
投球回数を見ると、岡島と三沢、そして柏田が2/3。南は1回1/3で、木村が1回。5人の中で最長イニングを投げた南がプロ5年目の初勝利を記録する…ものと思われた。
ところが、勝利投手になったのは、6回一死一・二塁で岡島をリリーフし、二塁けん制で一死を取ったあと、町田康嗣郎を中飛に打ち取った三沢だった。
実質“打者1人”の白星には、本人も「2/3で勝ち投手なんて記憶にない」と目を白黒させたが、長嶋茂雄監督の「あのけん制だな…」の言葉に皆納得。
「勝利に最も有効と思われる投球をした救援投手」は、その試合を担当した記録員に決定権があるので、ときにはこんなことも起きるのだ。
その一方で、プロ初勝利が“取り消し”となった例も…。
阪急のルーキー・原田賢治は、1986年10月3日の西武戦で4-3の6回から登板。4番手として3回2/3を無失点に抑え、プロ初勝利が記録されたが、これが2日後に取り消されてしまう。
というのも、チームが勝ち越したのは、2回途中から3イニング投げた2番手・谷良治が登板中の3回のことだったから。
記録部がのちに“訂正”することもあるのだから、小刻み継投での勝ち投手の決定は本当に難しい…。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)