竜の主将による劇的なアーチ
劇的な結末だった。10月15日、ナゴヤドームで行われた中日-阪神の一戦。中日は1点ビハインドで9回裏を迎え、二死ながら二・三塁と一打逆転のチャンスをつくり、打席には高橋周平が入る。
マウンドには阪神の守護神ロベルト・スアレス。一塁は空いているという状況だったが、阪神サイドは高橋と次のモイセ・シエラを天秤にかけ、前者との勝負をチョイス。すると、竜の主将は1ボール・1ストライクからの3球目、159キロの速球をものの見事に打ち返し、レフトスタンドまで放り込んだ。
初のサヨナラ弾は、虎の守護神にとっては初の被本塁打で今季の初黒星。チームを5連勝に導くひと振りに、名古屋の竜党が大いに沸いた。
高橋周平を育てた“鬼コーチ”?
試合後、記者は高橋の母・玉寄さんに電話した。「高橋はなぜ、左打ちなのか」という疑問の答えを知るためだった。
電話を掛ける前に振り返る。幼少期の高橋は、8歳上の兄・恭平さんのスパルタ指導を受けている。
時に小突かれ、怒鳴られ…。基本の「バットは内から」を繰り返された。大好きな兄ちゃんは、時に鬼コーチになった。
だから、一軍定着する頃になると「オレ、もうアドバイスはいらないから」と反発してみたこともあった。兄からは「おっ、周平が言うようになった!まだまだだろ」と返される。
独特の言い回しで兄を慕う弟と、弟を心配する兄。この根本的な構図は20年たっても変わっていないのだ。
そんなことを思いながら、電話した。
「夜分すみません」とあいさつすると、玉寄さんは「見てたわよ~。見てたわよ~」と元気に返してくれた。声のトーンを聞いて、喜びの表情が浮かんだ。
神奈川県・藤沢市の実家は1階に両親が住み、2階に兄夫婦が住んでいる。
「2階から『ヨッシャー』って声が聞こえてきたから、お兄ちゃんも見ていたみたいよ」
玉寄さんへのあいさつを終え、恭平さんに「なぜ、左打ちなんですか?」と尋ねた。
「最初は嫌そうでしたよ」
答えは球界のブームにあった。
高橋は1994年1月生まれ。2歳になると、兄の少年野球チームにくっついて行っていた。当時はオリックスのイチロー、巨人の松井秀喜が球界を沸かしていた。
「すごい選手が右投げ左打ちだったからです」
兄は、右で構えた弟からバットを取り上げ、左打ちに矯正しのだ。
ただ、2歳児だって、構えやすい・構えにくいは感じる。「最初は嫌そうでしたよ」と、苦笑いで教えてくれた。
そこが高橋伝説の始まり。3歳になれば、バッティングセンターでミートを続ける。
高橋自身、「オレ、3歳のころが一番打てたのかも。本当に、すごかったみたい」と語る。従業員が「すごい子だから」という理由で、無料でコインを入れてくれたエピソードは、高橋家の語り草となっている。
球界を見回せば、利き手と反対の打席に立ち、バットを操る選手は何人もいる。それぞれにきっかけがある。そこから技術を身につけ、結果を出し続けるには、利き手は関係ない。
高橋自身、箸を持つのは右手で、ゴルフのスイングも右。スイングだけが左となっている。右打ちのままなら、今の高橋はいない。
人生の分岐点は、本人の意思決定だけではない。何が起こるか分からないものなのだ。
文=川本光憲(中日スポーツ・ドラゴンズ担当)