プロ1試合出場で生涯打率1.000、長打率は4.000
プロ野球で最も多くの本塁打を記録した選手と言えば、ご存じのとおり、“世界のホームラン王”こと王貞治。その数、868本。その一方で、通算1本塁打にもかかわらず、それが記憶に残る歴史的な一発になった選手もいる。
現役通算1打数1安打にもかかわらず、その1安打が本塁打だったことから、生涯打率10割・長打率40割の“伝説の男”になったのが、塩瀬盛道(東急)である。
1950年5月11日の大映戦。5回二死までに0-18と大きくリードされた東急は、蔦文也(後の池田高監督)に代えて、塩瀬を4番手のリリーフに送った。緊張のプロ初登板ながら、打者が投手の姫野好治だったことも幸いし、三振に打ち取って3アウトチェンジ。
そして、6回にドラマが起きる。二死一塁で打席に立った塩瀬は、姫野の外角寄りの初球を右翼席上段に叩き込む。プロ初打席でプロ1号の快挙である。
だが、良かったのはここまで。その裏、塩瀬は四球やボークなどで2点を献上。7回にも2四球と内野安打で無死満塁のピンチを招き、降板となった。
そして、これが塩瀬にとっての最初で最後の出場に。同年11月、19歳の若さで退団となると、その後は社会人の熊谷組でプレーを続け、都市対抗に3年連続出場をはたす一方、大沢清(元中日など/元日本ハム監督・大沢啓二の兄)のアマチュア資格が下りるまでの期間限定で母校・国学院大の監督も務めた。
通算出場1試合で打率10割・長打率40割を記録したのは、あとにも先にも塩瀬だけである。
2人目の「生涯打率10割・長打率40割」
その塩瀬とともに、生涯打率10割・長打率40割の記録保持者として知られるのが、1990年から1992年までオリックスに在籍した190センチの右腕ドン・シュルジー。
DH制下で投手は打席に立たないはずなのに、ひょんなことから回ってきた唯一の打席での一発という意味でも、貴重な記録である。
1991年5月29日の近鉄戦。9回に高橋智の左越え3ランで5-3と逆転したオリックス・土井正三監督は、8回を3失点と好投したルーキー・長谷川滋利にプロ初勝利をプレゼントするため、その裏、満を持してリリーフエースのシュルジーをマウンドに送った。
「9回は守りだけを考えた」という土井監督は、指名打者で出場していた石嶺和彦の代走・飯塚富司をファーストに入れ、シュルジーを6番投手に組み込む。ところが、このシュルジーが大誤算。自らの暴投と鈴木貴久のタイムリーで、試合はたちまち同点に…。本当に野球はわからない。
そして、5-5の延長11回。時間切れ引き分け寸前の二死無走者という場面で、シュルジーに来日初打席が回ってくる。
捕手・中嶋聡のバットを借りて打席に立ったシュルジーは、赤堀元之の初球・スライダーが真ん中高めに入ってくるところを、迷わずフルスイング。打球はあっという間に左中間席中段に飛び込む決勝弾となった。
ちなみに、パ・リーグのDH制導入後、打席に立った投手が本塁打を放ったのは、安打も含めて史上初の快挙だった。
自らの一発に気を良くしたシュルジーは、その裏の近鉄の攻撃を三者凡退に切って取り、勝ち投手になったが、「幸運だった」と喜びながらも、「長谷川に申し訳のないことをした」となんとも複雑な心境を吐露。
なお、シュルジーの日本での打席はこの1回だけだったことから、塩瀬以来で史上2人目というレアな記録が誕生した。
唯一のホームランが逆転満塁弾
現役時代に記録した唯一の本塁打が、チームを首位陥落の危機から救う逆転満塁弾となったのが、広島時代の久保俊巳だ。
1975年、球団創設以来初の優勝を狙う広島は、8月8日の阪神戦で初回に5点を先制しながら、まさかの逆転負け。2位・中日に0.5ゲーム差、3位・阪神にも1ゲーム差と詰め寄られた。
翌9日の阪神戦も、5回に掛布雅之の右越えソロで先制され、江夏豊の前に6回までゼロ行進。このまま負ければ首位陥落というピンチを迎えた。
ところが、0-1の7回に四球とシェーンの左翼線二塁打で二死二・三塁のチャンスをつくると、江夏は次打者・水谷実雄を敬遠。当たっていない8番・道原博幸との勝負を選んだ。
これに対し、「道原まで回れば代打」と決めていた広島・古葉竹識監督は、「代打・久保」を告げる。
家庭の事情で大学を1年で中退し、テスト入団したプロ6年目。前年まで通算5安打。この年も開幕以来8安打しか記録していなかったが、ウエスタンでは8本塁打を放っていた。
「思い切って行け」と古葉監督に送り出された久保は、初球の内角速球をファウルし、2球目の外角フォークを空振り。たちまち2ストライクと追い込まれる。
江夏は2球続けて内角を攻め、久保をのけぞらせたあと、カウント2ボール・2ストライクから勝負球のフォークを投じる。ゴロを打たせて併殺を取るつもりだった。
一方、ベンチで江夏の投球を観察し、フォークが多いことに気づいていた久保は「フォークしかない」とヤマを張って、フルスイング。
フォークがすっぽ抜けて内角高めに入り、あまり落ちなかったことも幸いした。快音を発した打球は、起死回生の逆転満塁弾となって、甲子園の左翼席に突き刺さった。
劇的な逆転勝利で首位を死守した広島は、9月に貯金15と抜け出し、悲願の初Vを達成する。
なお、久保は日本ハム時代の1977年4月14日・南海戦で、1イニングで盗塁死(二塁手が落球)と走塁死をダブルで記録する珍事を演じているが、10年間の現役生活で本塁打はこの1本だけだった。
このほか、1シーズン限定ではあるが、阪神・長坂拳弥が2019年に1打数1安打1本塁打の打率10割・長打率40割の珍記録を達成している。
日本プロ野球の長い歴史のなかで、一瞬ではあるとはいえ、大きな輝きを放った選手たちを忘れないでほしい。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)