究極の「ユーティリティープレイヤー」
長丁場のペナントレース。有事の際に救世主となるのが、複数のポジションを守ることができる器用な選手。近年では彼らを表す「ユーティリティープレイヤー」という言葉もすっかり定着した。
今回取り上げるのは、その究極系とも言える男たち。「投手から右翼手までの全ポジションを守った選手」についてだ。プロ野球界では、キャリアの中で全9ポジションを守った選手というのがこれまでに2人いた。
第1号は、南海から日本ハム、ロッテなどを渡り歩いた高橋博士。宮崎商時代には高校日本選抜のメンバーに選ばれた大型捕手で、南海入団1年目の1964年には村上雅則とサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1A・フレズノにも留学している有望株だった。
しかし、1966年には第2捕手を任されるまでになったが、当時のチームの正捕手は全盛期の野村克也。頭角を現しつつあったとはいえ、わずか31試合の出場にとどまっている。
そんな限られた出場機会の中、守りだけでなくバットでもパンチ力を発揮していただけに、これでは宝の持ち腐れ…ということで、1970年からは内野手に転向。主に三塁を守り、1971年にはファン投票で遊撃手としてオールスターにも選出された。
しかし、その年のオフに江本孟紀とのトレードで東映に電撃移籍。結果的には、この一件がのちに高橋が“伝説の男”として歴史に名を刻む大きな契機となる。
「何かいいファンサービスはないか」
球団名が日本ハムに変わった1974年。高橋は本職だった捕手に戻り、打率.283・7本塁打を記録。それだけでなく、器用さを買われて投手と外野の両翼を除くすべてのポジションを守るなど、新天地でフル回転の活躍を見せていた。
そんな中、迎えた本拠地・後楽園のシーズン最終戦。「何か良いファンサービスはないだろうか?」と思案投げ首していた中西太監督は、「いっそのこと1試合のうちにイニングごとにポジションを変えたら、面白いじゃないか」というアイデアを思いつく。
かくして、9月29日の南海戦。奇しくも古巣を相手に、「1試合で全ポジションを守る」というプロ野球史上初の快挙が実現する。
ダブルヘッダーの第2試合。「3番・一塁」で先発出場した高橋は、2回に捕手、3回にサード、4回にショート、5回にセカンド、6回にレフト、7回にセンター、8回にライトと、投手を除く全ポジションをこなしたあと、0-7の9回にはついに初体験のマウンドへ。
先頭打者の投手・野崎恒男に対し、初球から超スローボールを投じたが、2球続けてボール。ようやく3球目にストライクが入り、カウント2ボール・1ストライクからの4球目、センターへの大飛球に打ち取ったところで渡辺秀武にマウンドを譲り、ベンチに下がった。
大役を無事に終えた高橋は、「ピッチャーにあそこまで持っていかれちゃあね。もうこんなことたくさんです。ノムさん(南海・野村監督)はじめ、野次がすごいんですよ。因果なもんですね。ノムさんの前で器用バカを披露するなんて…」と疲れきった表情だった。
また、“因果”といえば、高橋はロッテ時代に珍しい背番号1の捕手として話題になったが、ロッテで正捕手を務めていた1978年には、南海の監督を解任された野村が一兵卒としてロッテに移籍。約10年前は大きな壁として立ちはだかっていた高橋の控えに回るという、なんとも皮肉な“主客逆転劇”もあった。
代わりの捕手がいない緊急事態!
高橋に次ぐ第2号は、ロッテやオリックス、近鉄でプレーした五十嵐章人だ。
こちらは1試合で全ポジションを守った高橋とは対照的に、プロ入りから10年かけての達成。この選手も前橋商時代の1986年夏にはエースとして甲子園に出場、ベスト16入りした経歴の持ち主でもあり、基本捕手以外なら何でもござれだった。
そんな五十嵐に、思いもよらぬ捕手としての出番が回ってきたのが、ロッテ時代の1995年5月7日のオリックス戦だった。
8回の守りで、本塁クロスプレーのセーフ判定に怒った捕手・定詰雅彦が栄村隆康球審を両手で突き、退場処分になってしまう。先発捕手の山中潔はすでに交代しており、3番手の猪久保吾一も風疹で自宅療養中とあって、代わりの捕手がいない…。
この緊急事態に、“急造捕手”として指名されたのが、中学時代に練習でマスクをかぶった経験のある五十嵐だった。
実戦での捕手はもちろん初めて。「えっ、オレ?」と思わず目が点になったが、行きがかり上やるしかない。
細かいサインは無理なので、小野和幸を直球主体でリード。この回を三輪隆の中前タイムリーによる1失点で乗り切り、試合後は「ボールを捕るのに無我夢中でした。捕手の仕事は簡単ではない」とヘトヘトだった。
26年ぶり2人目の全ポジション制覇
それから5年後、オリックス時代の2000年6月3日の近鉄戦で、今度は投手としてマウンドに上がることになった。
3-16と大きくリードされ、なおも無死三塁のピンチに、仰木彬監督は「白旗を掲げたということや」と五十嵐を4番手のリリーフに送った。
この時点で五十嵐は投手を除く8つのポジションを経験しており、前出の高橋以来、26年ぶり2人目の全9ポジション制覇が達成された。
初マウンドはいきなり山下勝巳の左犠飛で1点を許し、次打者・前田忠節にも左前安打を浴びる波乱の立ち上がりも、本職ではない投手との対戦を嫌った大村直之が送りバントで二死としたあと、中村紀洋を右飛に打ち取り、何とか投げ切った。
だが、2度にわたる死球騒動で大荒れとなった直後のリリーフに、「あんな奇策、どうでもいい」と近鉄・梨田昌孝監督を白けさせたことなどから、五十嵐本人は空気を読んで「複雑です。相手に迷惑をかけた」と謙虚なコメント。
2002年、その近鉄に移籍した五十嵐は、8番で出場した4月21日のダイエー戦で史上6人目の全打順本塁打も達成。「全ポジション守備」と「全打順本塁打」の両方を実現したのは、もちろん五十嵐ひとりだけである。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)