清原ジュニアがアメフトから野球へ
慶応高でアメフト選手だった清原和博氏の長男・正吾選手が、慶大野球部に入部したというニュースが注目を集めている。
慶大では、過去にも高校で柔道やバスケットボールをしていた選手が野球部に入部し、代打などで試合に出場した例がある。“清原ジュニア”も、努力しだいでは試合に出場できるようになるかもしれない。
そして、プロ野球界に目を転じてみても、異種競技からの転身で注目を集めた選手がいた。
最も有名なのは、陸上100メートルで当時の日本記録である10秒1を樹立し、東京五輪とメキシコ五輪に出場した飯島秀雄だろう。
1968年のメキシコ五輪終了後、「足を生かす仕事をしたい」とセカンドキャリアを探していた矢先、東京オリオンズ(※翌年からロッテ)の永田雅一オーナーから、「世界初の“代走専門選手”として、オリオンズの名物にしたい」と誘われた。
なんでも2~3年は代走専門でプレーしたあと、ランニングコーチにするというプランで、「後進の指導者として残ってほしい」と反対する陸連にも、「10年間は保証する」と話を通して説得したのだという。
「永田オーナーに勧誘されてうれしかった」という飯島は入団を決意。同年のドラフトで、野球選手以外では異例の指名(9位)を受ける。背番号も、当時のプロ野球のシーズン記録だった85盗塁を上回るようにと願いを込めた「88」に決定。契約時には、足に500万円の保険がかけられた。
デビュー戦は1969年4月13日の南海戦。9回無死一塁で代走起用された飯島は、初球でいきなり単独スチールに成功。送球がセンターに抜ける間に三塁を陥れ、井石礼司の左越えタイムリーでサヨナラのホームイン。世界初の“代走屋”目当てにスタンドを埋めた2万人のファンを喜ばせた。
だが、いくら足が速くても、ベースランニングやスライディングとなると話は別だった。
3年間の通算盗塁数23に対し、失敗も17回記録。1971年6月20日の西鉄戦では、代走として二進した直後、不用意に塁を飛び出してタッチアウトに。別の試合では、盗塁スタートの際にベースコーチが「用意ドン!」と合図するのを、相手の野手に悪用されたという話も伝わっている。
結局、同年限りで現役を引退。当初の予定どおり、ランニングコーチに就任したものの、本業の映画事業の不振で永田オーナーが球団経営から身を引いたことから、わずか1年で退団となった。
西武はやり投げ選手、ロッテは元力士を獲得
同じく陸上出身では、1988年に練習生で西武に入団した日月鉄二(たちもり・てつじ)も、関東高(現・聖徳学園)3年時の沖縄国体で、やり投げで6位入賞した実績を持っている。
西武入団後は遠投100メートル、50メートル5秒9の肩と足を売りに投手や外野手に挑戦したが、支配下登録後も一軍出場がないまま、1992年限りで退団した。
また、大相撲の力士から高校経由でプロ野球入りという異色の経歴を持つのが、元ロッテの市場孝之だ。
中学時代はボーイズリーグのエースで4番。大産大大東校舎(現・大阪桐蔭)への進学が内定していたが、中学で所属していた相撲部が全国大会に出場したのがきっかけで、佐渡ヶ嶽親方(元横綱・琴桜)からスカウトされ、「滅多にない機会」と角界入りした。1986年の春場所には「琴市場」のしこ名で一番出世したが、翌年に左くるぶしを痛めたのが災いし、序二段42枚目を最高位に、わずか9場所で引退した。
その後、「高校に進学してもう一度野球をやりたい」と、1988年の4月に静岡県の国際海洋高(現・菊川南陵高)に入学。年齢制限のため、2年の夏までしかプレーできなかったが、一塁手兼準エースとして通算26本塁打を記録し、1989年12月にロッテの練習生となる。
そして、1992年から球団職員、練習生の選手保有が禁止されるのに伴い、1991年のドラフトでロッテが7位指名。晴れて支配下登録を勝ち取った。
元大相撲力士のプロ野球界入りは、1958年に国鉄・吉屋民夫、1959年に巨人・服部貞夫という前例があるものの、ドラフトで指名されたのは史上初。「1試合でも多く出場して、長打を生かしたバッティングをしたい」と一軍入りを目指した市場だったが、目標を実現できないまま、1993年限りで退団した。
記憶に新しいソフトボールからの転身
軟式や準硬式からプロ野球入りというパターンは、大野豊(元広島)をはじめ、過去に何度もあるが、ソフトボールから転身したのが、2011年のドラフトで日本ハムに7位指名された捕手の大嶋匠だ。
小学生時代は軟式だったが、新島学園の中学~高校、そして早大の10年間はソフトボールひと筋。大学4年間で13試合連続を含む80本前後の本塁打を記録し、2年のときに師事した荒川博氏からも「生まれながらのスラッガー」と認められた。
日に日に「プロテストを記念に受験したい」の思いが強くなり、相談を受けたソフトボール部の吉村正監督が、早大OBの日本ハム・大渕隆スカウトを紹介。半年間硬球で練習を続けたあと、10月に入団テストを受験。“合否発表の場”だったドラフトで朗報が届いた。
「テレビで見ていて自分の名前が呼ばれたとき、4~5回確認して、やっぱり自分の名前があって、本当にうれしかった」。
“異色のソフトボーイ”は、実働3年で一軍通算15試合と出場機会こそ少なかったが、2016年5月31日のヤクルト戦ではプロ初安打となる右中間への二塁打を放ち、同年6月11日の阪神戦では俊介の二盗を阻止するなど、攻守で存在感をアピールした。
これらの選手は特筆すべき活躍はできなかったとはいえ、プロ野球界に挑戦したという“勇気”は球史に確かに刻まれている。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)