白球つれづれ2021~第28回・怪物の足跡
西武の松坂大輔投手の現役引退が7日、球団から発表された。40歳。プロ23年目の重い決断だった。
「心が折れてしまった」。本人は不在のまま、渡辺久信GMから明かされた引退だが、心と体の回復を待って後日、会見を開く予定だという。だが、親しい友人たちには、無念の胸中をこんな言葉で語っている。古巣の西武に戻って2年。メットライフドームのマウンドに立つ姿を自らも目標としてきたが、夢はかなわずにその時を迎えた。間違いなく、ひとつの時代が終わった。
20数年前のことだ。筆者が勤務していたスポーツ新聞社に“怪物君”は現れた。横浜高校で春夏連覇の偉業を遂げて、秋のドラフトでは西武に入団が決まったばかりだった。詰襟の学生服に、あの愛嬌ある笑顔。体も飛びぬけて大きくない、どこにでもいそうな高校生は、無邪気に新聞の製作工程などの説明を受けていた。物怖じしない会話の中に大物の片鱗をのぞかせながら、それから半年もたたないうちに、プロ野球選手・松坂は次々と快記録を打ち立てていった。
数々の記憶と記録
今さら、一つひとつの記録を紐解く必要もないだろう。
甲子園の寵児は、西武入団後も初年度から3年連続で最多勝をマーク。さらにメジャーに渡った2007年にレッドソックスで15勝、翌年には18勝3敗の凄い数字を残してワールドシリーズチャンピオンにまで駆け上がった。さらに2006年と09年のWBC(ワールドベースボールクラシック)では日本代表として2大会連続MVPに耀いている。甲子園で、日本球界で、そしてメジャーで、これだけの偉業を達成した男は松坂以外にいない。
今、まさに高校球児の夏は真っ盛りだ。近年は投手の球数制限もあって各チームは複数投手の育成に腐心している。だが、松坂の時代は違った。
1998年夏の甲子園大会。優勝候補筆頭の横浜高は準々決勝のPL学園戦で延長17回の死闘を演じる。エース・松坂の投球数は250球を数えた。さすがの怪物も翌日の対明徳義塾戦では肩が上がらず、野手として出場。ところが終盤まで0対6の大苦戦に松坂がマウンドに上ると大逆転勝利。その勢いで決勝戦に先発した松坂は京都成章打線をノーヒットノーランに封じて頂点に立った。
プロ入団時には「大輔フィーバー」と呼ばれる社会的現象を起こしたが、中でも印象深かったのは高知キャンプでの“影武者騒動”だろう。日曜、祝日には1万5000人を超すファンが詰めかける大盛況。あまりの大輔人気に、混乱を恐れた現場では、松坂の球場への出入りの際に一計を案じた。
体形の似ていた谷中真二投手に松坂のユニホームを着せて、ファンの目を欺く。その間に当の本人は別口から移動するという前代未聞の作戦をとった。いかにグラウンドの内外で人気を独占していたかがわかるエピソードである。
故障との闘いと移り変わる時代
球史に残るスーパースターには違いないが、白球人生の後半は故障の連続で目標としてきた200勝は達成できなかった。
松坂の恩師の一人である東尾修元西武監督は、早い時期から左の足首と膝の硬さを指摘していた。それが故障につながったのはメジャーへ移籍して3年目あたりから。肩、肘の痛みを訴えて11年にはトミージョン手術も受けたが、全盛期の投球は戻らなかった。メジャー特有の硬いマウンドに股関節を痛め、いわゆる上半身主導の手投げ状態に陥る。
日本復帰後のソフトバンク、中日時代も満足な投球は出来ないまま。西武に戻った昨年には、右手中指の感覚すら失い、頸椎の手術に踏み切ったが、未だに完治の見込みは立たず引退の決め手となった。
松坂の引退が発表された日にメジャーリーグではエンゼルスの大谷翔平選手がレッドソックス戦に先発登板して勝利、日米通算50勝の節目の白星となった。時代の移り変わりを象徴するような一日だった。
栄光とどん底を味わった稀代の右腕。西武の後藤高志オーナーは今季の開幕前に「松坂の投げる姿を楽しみにしている」と語っている。夢は叶わなかったが、ファンもオーナーも次の願いは指導者・松坂の誕生だろう。
妻子を米国・ボストンに置いて単身赴任の形だっただけに、しばらくは米国を拠点に生活するのではないか、という見方もある。だが、村田修一、杉内俊哉現巨人コーチを始め多くの「松坂世代」はすでに指導者として新たな道を歩み始めている。8月以降に予定される引退会見の場で本人は何を語るのか?
今はゆっくり羽を休めればいい。だが近い将来、松坂大輔がコーチとして、監督として球場に戻ってくる日を楽しみにしているファンは少なくない。現役より残された人生は長い。怪物伝説第2章が間もなく始まる。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)